賀茂光栄の恠異占

陰陽師平安時代

木下先生の Facebook の投稿で『陰陽師の平安時代: 貴族たちの不安解消と招福』を知ったので Kindle 版を購入して読んでいる。

中に賀茂光栄みつよし*1による恠異占の占文が出てくる。おそらくは漢文だったのを読み下してある。

占ふ、六月十二日戊申。時、酉に加ふ。〈怪を聞く日時。〉功曹、戊に臨んで、用と為す。将、騰虵(蛇)。中は徴明、大陰。(終は)伝送、白虎。卦遇は「知一」「玄胎四牝」。之を推すに、氏の長者、及び卯・酉・丑・未年の男、巳・亥・卯・酉年の女、病事有るか。期、怪日以後四十日の内、及び来たる十月・明年正月・四月節の中、並びに甲・乙の日なり。

中島和歌子. 陰陽師平安時代 -貴族たちの不安解消と招福- 歴史文化ライブラリー (p.89). 株式会社吉川弘文館. Kindle 版.
※傍線は引用者が除去

この情報から再現したのが右の課式になる。占事略决の貴人法だと戊日の夜貴人なので貴人は未に乗じると思うが、賀茂光栄は丑に乗じるとしている。 あるいは酉刻はまだ昼で戌刻から夜とする占事略决の昼夜の別を採用していたのだろうか。

この占いはなんでも、

春日社で怪異があったことを知り、光栄に尋ねると、すぐに「占方」を送ってきた。「今月十二日、酉の時」に、神殿の南から大木が倒れるような音が聞こえ、地響きがあったという。

中島和歌子. 陰陽師平安時代 -貴族たちの不安解消と招福- 歴史文化ライブラリー (p.87). 株式会社吉川弘文館. Kindle 版.

という経緯で行われたものらしい。

干上神に恠異の類神である騰蛇が乗じて発用に立っている。どうみても恠異であり、空亡しているとはいえ日鬼となっているので物忌みをしなさいという指示を出さざるを得ないだろう。

物忌みの対象の指示として該当する生年支の男女があげてあるけれども、これはおそらく指年法を使っているのだろう。それとは別に氏の長者がトップにあげてあるのは、干上神が功曹であり、功曹は大臣級の人物の類神である青龍の本地であるからと推測できる。

「病事有るか」としているのは、末伝に乗じた白虎から採ったのだろう。

40日という日数については、中島先生は表を見なさいとしているけれども、略决の応期法と同じく天盤河魁とその地盤丑の大衍数5と8の掛け算から出していると考えられる。今は知られていないけれども、河魁と地盤の大衍数から応期を出す方法は当時は一般的だったのだろう。

六壬はこうやって古い課式から色々読み解くことができる。色々参考になる面白い本に出合えて良かった。

なお本書の参考文系に私の『占事略决詳解』があがっているのも嬉しい。

なお本書の62~63頁かけて、壬申の乱直前のまだ大海人皇子だった天武天皇が自ら式を取って占ったのを遁甲式で占ったとしているけれども、私見では六壬を使ったと考えている。理由は、

  • 書紀ではここを「親秉式」と記しており、式盤を自分で操作したと考えるのが妥当だと思うが、遁甲式は構成要素が多くて1つの式盤に全てを埋め込むのは困難であるし、遁甲式の式盤そのものは出土してなかったと思う。
  • 六壬で占うと返吟課となり天地相冲で「天下両分之祥」に相応しい。

一応、両方で占うとどうなるか考えたことがある。

*1:安部晴明の師匠である賀茂保憲の長男