天下両分之祥也

壬申の乱

以前の『天武天皇の式占』のエントリで、壬申の乱で直接の戦闘が始まる前に、夜半に天を二分する黒雲を見た天武天皇*1が、奇異に思って自ら式盤を取って占った話を取り上げた。この時は、日の干支がどの時刻で切り替わるのか不明だったので、遁甲卜占でお茶を濁すことになった。

その後、小坂眞二先生の何かの論文によると、陰陽寮では日出を日の区切りとしていたのを知った。
奇門遁甲の源流となった太乙九宮術の式盤は出土しているけれども、奇門遁甲の式盤が出土していない以上、式盤を取って占うとしたら六壬神課か太乙神数しかない。太乙よりは六壬の方がありそうだ。そこで天武天皇の読みをトレースしてみることにする。

天武天皇は三月十八日(己酉)に吉野を脱出して東に向かい2ヶ月後の五月十三日(壬寅)に戦争の準備を初めている。
六月廿二日(壬午)には美濃に使者を派遣して、自分の側について関所を閉じることを命令し、更に東に移動しつつ次々と行動を起こしている。六月廿四日には関ヶ原を越えたようで、そのまま夜を徹して更に東に向かっている。その夜半の空に黒雲を見て占ったわけだ。そしてこう判断した。

天下両分之祥也、然朕遂得天下歟。
(天下が真っ二つに別れる象だ。しかし最後は私が天下を取ることになるだろう。)

夜半ということで子刻、六月も半ばを過ぎていたので月将は確実に勝光(午)となる。子刻を過ぎたけれども夜明け前なので、日干支は甲申のままで占ったと考えられる。すると非常に特徴のある返吟課が得られる。

つまり日干甲の寄宮が寅なので日支と冲になる。この状況で返吟課というのはまさしく『天下両分之祥』といえる。
そしてこの課式では一課、四課と二課三課が同じという2つの不備が発生する。陽神は残り陰神は消えるので日干側は二課が消え、日支側は四課が消えることになる。お互い、相手を圧倒する兵力は揃わないという判断になるだろう。これで天武天皇は美濃で大友軍の足止めが効くと判断したと思う。

なおこの課式は勝敗が明瞭で、三課曹功が地盤申と天将白虎の両方から剋されている*2が日干側は一課に騰蛇が乗じているものの三課程には悪い状態ではなく、五行の相剋でも一課伝送が勝つ。では天武天皇は何故、日干側が自分であると判断したのだろうか。おそらくは年命を見たのだろう。天武天皇の出自は謎が多いが、大友皇子は672年生まれで、本命は戊申になる。ということで、本命支が日支と同じなので、大友皇子が日支三課側となる。そこで、

然朕遂得天下歟。

という判断となったのだろう*3。しかし天武天皇は式盤を常時形態していたみたいだ。ひょっとすると正しく醮を行って開光点眼した式盤だったのかもしれない。小法局式では点光開眼後の式盤は赤い袋にいれて肌身離さず携帯することになっている。

*1:この段階では大海人皇子

*2:これを夾剋という。

*3:ニヤリとしながら言ったのではないだろうか。