何故だろう

六壬リバイバルは阿部泰山を待たねばならなかった

ここしばらく白井為賀の『陰陽方位便覧』を読み続けている。著者の白井為賀は福田福徳の序文で、

明辨郭氏元經誤
開示先哲未発之蘊
超訳)白井為賀って『郭子元経』の間違いを見つけちゃう凄い人なんだぜ

と書かれている人だし、奇門遁甲の超神接気を完全に理解して日の九星に応用する人でもあった*1。土御門晴親が開いた私塾『斉政館』*2とその周辺には豊富な人材が揃っていたと考えて良いだろう。

ならば何故、六壬リバイバルが江戸末~明治初期にかけて起こらなかったのだろう?というのがこの数日で芽生えた疑問だ。六壬の原典を読んで内容を理解する能力のある人材がいなかったはずがない。また晴親、晴雄父子の時代にはかなり性能の良い振子時計を入手していたのは間違いなく、六壬に必要な時刻管理も十分に可能であっただろう。

にも関わらず晴親、晴雄父子の時代に『占事略决』の再評価、六壬神課リバイバルは起こらなかった。六壬リバイバルは阿部泰山を待たねばならなかった。何故だろう?最後の陰陽頭土御門晴親は占いから手を引くことを考えていたのだろうか?

*1:遁局と日家九星』のエントリを参照のこと。

*2:斉政館を開いたのは晴親の父である泰栄でした。2023-11-06訂正。