ここ数日でわかったこと
国会図書館のデジタル・アーカイブに入っている『陰陽方位便覧上』から、以下のことが判明したと考えて良いだろう*1。
- 日本の方位を見るための九星の術の基礎を築いたのは、園田真次郎でも松浦琴鶴でもなく土御門家である。
- それは土御門晴親によって公開された。
- 八宅明鏡は既に知られていた。
- 方位は風水とは一線を画するもので、移動の方位を見るためのものとして作られた。
ところで明治23年に刊行された『陰陽方位便覧上』の5コマ目に松浦琴鶴の署名が入っている。4コマ目から始まる松浦琴鶴による序文によると、序文を書いた琴鶴は幕末の家相家松浦琴鶴の孫*2に当たる人物で、初代?の琴鶴は原著者の1人である白井為賀と親しかったそうだ。そして白井為賀の子孫が絶えてしまっていたために琴鶴の孫である自分の所に改訂の話が持ち込まれたとのことだ。
これから初代の松浦琴鶴は『陰陽方位便覧』について詳しかったことがわかる。ただ琴鶴は方鑒家というよりは家相家として有名だったようだ。
では方位にも家相にも詳しく、家相ないし風水と方鑒が全く別の術と認識していた琴鶴が使っていた家相術は何だったのだろうという疑問が出てくる。
宮内貴久著『風水と家相の歴史』によれば、江戸期の家相の鑑定書は全て二十四山で作成されていたとのことなので、松浦琴鶴の家相の鑑定書も二十四山だったのは間違いないだろう。
ここで想像を逞しくすると、琴鶴が八宅大門法ないし八宅小遊年変爻法を使っていた可能性が出て来る。どちらも八宅の大遊年変爻法をベースにして二十四山に割り振った小成八卦の変爻を見るものだ。もっとも日本の住居で大門があるのは大身の武家屋敷くらいだろうから、小遊年変爻法の方が可能性が高いのではないだろうか。
なんか幕末~明治の占いって今より深かったんじゃないだろうか。少なくとも九星を使った移動と風水をゴッチャにするような人は、幕末~明治の方鑒家にも家相家にも居なかったというのは確かだろう。