陰陽師と差別

安寿と厨子王

森鴎外が『山椒太夫』を上梓した直後くらいに柳田國男が『山荘太夫*1』を発表して、山荘=さんそう→さんじょ=算所であるとして、ほぼ断定的に山荘太夫とは陰陽師の集落の長官(太夫)であったとしている。現代の研究によれば勿論、柳田は間違っていて“さんじょ”とは『散所』であったことが判っている。『散所』とはコトバンク所収の『精選版 日本国語大辞典「散所」』によると、

さん‐じょ【散所】
〘名〙
① 名目上特定の官司、集団に属しながら、そこでは職掌を持たず、平常はその長の支配を受けず、他の者特に有力貴族などに付属、奉仕していること。また、その者。転じて、特定の職掌をもたないこと、あるいはある者から見てその支配下にないことのいずれかのみを意味する場合もある。
延喜式(927)四六「凡行幸之日。召二集散所衛士一令二供奉一」
② 中古末・中世における貴族や社寺の所領の一種。また、その住民。住民は年貢を免除されるかわりに、領主に対して雑役をつとめた。浮浪生活者の集団的定住に由来するものが多く、住民の所役はその居所の所在によって領主身辺の雑役、交通運輸の業務、狩猟漁労などがあった。住民の生活は隷従的で、一般民衆からは賤民として差別されることが多かった。商人、芸能者を多く生んでいる。
※殿暦‐康和四年(1102)四月三〇日「府生敦時に仰二散所事一、泰仲朝臣仰二下之一、前例也。彼朝臣雑色所別当云々」
③ 中世後期から江戸時代にかけて、卜占(ぼくせん)や雑芸などを業とした賤民。
建内記‐正長元年(1428)六月一〇日「被レ召二散所者一〈声聞師事也〉」

となっている。引用の③にある通り、占い師(算置)もまた散所の民ではあった。柳田による断定の根拠に、実際に陰陽師が江戸時代まで差別を受けていたことはあっただろう。ただこの差別は、白土三平の『カムイ伝』で描かれたような苛烈なものではなく*2、婚姻と火を同じくしないくらいで収まる緩いものであったこともわかっている。エッセンシャルワーカーの側面もあった散所民は案外と経済的に安定していて、常民相手に金融を営むこともあったらしい。

で、この差別絡みでtwitterを使って以下のようなアンケートをとってみた。

回答数が343と私がとったアンケートの中で最も多い回答数を得た。閲覧用を外すと[知っている]:[今聞いた]=207:81になる。大雑把だが50歳以下では4割くらいの人が『安寿と厨子王』を知らないことになる*3。多分に例外的であっただろうけど、丹後半島の由良地区の散所太夫による苛烈な支配の説話は忘れられつつあるのかもしれない。もっとも由良地区では『安寿と厨子王』の説話は健在だ*4

とまれ緩いことは緩かったけれども、陰陽師の類もまた被差別民であったわけで、昔々ニフティのどこぞのパティオで出た「漂泊の陰陽師が穢れを祓う役目を負っていた」なんてことはあるわけないと思うね。

*1:全集以外では絶版とはいえ『賤民にされた人びと: 非常民の民俗学』に収録されている。

*2:何事にも例外あるだろうが。

*3:60歳以上ならほぼ100%が知っていると思う。

*4:予行演習』のエントリを参照のこと。