調査不足だった

最近まで『占事略决』の写本は、尊経閣文庫本、京都大学図書館蔵の清家文庫本、宮内庁書陵部本の3本だと思っていたが、実はもう1本、京都府立総合資料館蔵の若杉家本があることがわかった。この若杉家本は村山修一先生の手になる「陰陽道基礎史料集成」(東京美術1987年)に全文が写真掲載されているということで*1国会図書館に行ってコピーをとってきた。若杉家本の奥書には慶長十五年とあるが、書写した人物の署名はない。なお若杉家というのは、晴明の子孫である土御門家の家司を代々務めてきた家柄で、その関係で土御門家に係る古文書を多数蔵していた。

ところでこの慶長十五年は、宮内庁書陵部本が書写された年でもある。宮内庁書陵部本もまた奥書に慶長十五年という年の記載はあっても署名はない。宮内庁書陵部本については紙焼きが取り寄せてある。だがやはり閲覧したいということで、だめもとで宮内庁に閲覧を御願いしたところ許可が出た。それで先日、千代田の御城内部にある宮内庁書陵部で閲覧させて頂いた。私のような下賤の者が千代田の御城に行くというのは実のところガクブルだったのだが、このチャンスを逃すと平日に千代田の御城に入る機会はないだろうということで行ってきた。

北橋詰御門から入りなさいという指示だったのだが、御門へ通じる道には閂のかかった門があって、慣れた人ならさっさと閂を外して守衛所で入門の手続きをするのだろうけど、初めての私は閂の外し方が判らなくて半分パニックだった。北橋詰御門には守衛さんがいる間は開け放してあるくぐり戸があってそこから御城の中に入ることになっている。

で、若杉家本と宮内庁書陵部本を比べると筆跡はともかく、使用されている文字の書体を含めて良く似ている。また『九醜卦』の解説などをみると、清家文庫本の系統ではなく尊経閣文庫本か尊経閣文庫本の元になった本を書写したもののようだ。『九醜卦』の解説の冒頭は、

謂天地之道、帰殃九醜。

であるはずなのだが、尊経閣文庫本、宮内庁書陵部本、若杉家本とも「殃」が「殊」になっていて文意が取れなくなっている。実は清家文庫本は文意が通らなくなるような書き間違いは尊経閣文庫本と比べて少ない。ただし清家文庫本には決定的な間違いが入っている。代表的な間違いは、略决冒頭の「常月将以加占時」が「常月将以加占事」になっていることで、こういったことからか小坂眞二先生は清家文庫本の位置付を尊経閣文庫本よりも低く評価している*2

さて話はもどって、若杉家本と宮内庁書陵部本の強い類似性をしめすものに「稽」字の書体がある。実はこの「稽」字は、全ての写本において楷書の「稽」字とは似ても似つかない書体が採用されている。尊経閣文庫本では「秋」の下に「而」を崩したような書体、清家文庫本では「秋」の下に「首」、若杉家本と宮内庁書陵部本では「秋」の下に「ユ」と「日」を並べたような書体となっている。これは以下のような変遷をたどって作られた書体ではないかと推測している*3

元々の「稽」字は禾ヘンに「尤」と「旨」を並べたもので、禾ヘンに「尤」で「ケイ」の声符を構成している。最初に声符ではない「旨」の部分が全体の下にくる形に変化し、さらに「尤」が「火」に変化して、「秋」の下に「旨」がくる形となる。次に「旨」が「ユ」「日」や「首」と変わってしまったのではないだろうか。また尊経閣文庫本では「旨」を崩したものが「而」を崩したように見えたのではないだろうかと考えている。

どうも慶長十五年という年は、土御門家にとって何かあった年らしく、若杉家本と宮内庁書陵部本の他にも略决の写本が作られたのではないだろうか。村山修一先生によると慶長十五年という年は土御門久脩が流罪*4から帰ってきて間もない年だそうで、土御門家の陰陽道を再興するための活動の一環として略决の写本が作られたのではないか、というのが村山先生の考えである*5

*1:私の問い合わせに、京都府立総合資料館から丁寧な対応を頂きました。ありがとうございます。

*2:安倍晴明撰『占事略決』と陰陽道」、汲古書院2005年

*3:以下については、id:consigliereさんからの指摘が元になっている。

*4:土御門久脩は豊臣秀次に近かった関係で、秀吉による秀次粛清のあおりを食って流罪となった。

*5:ひょっとすると流罪から帰ってくるために尽力してくれた人達への御礼として略决の写本を作ったのかもしれない。