ハカセ

山荘太夫

森鴎外が『山椒太夫』を上梓した直後といって良い時期に、柳田國男は『山荘太夫考』を発表している。鴎外の『山椒太夫』は説教節の演目の一つである『山荘太夫』を下敷きにした作品、というか『山荘太夫』を鴎外流にリライトしたものだ。

説教節は鉦(しょう)・簓(ささら)を伴奏に仏教説話を音楽化し語り物としたもので、本来は門付け芸・大道芸だった。コトバンクの説教節の項目にまとめられている様々な解説が徹底的に触れない事実として、説教節は被差別部落を中心に伝承されてきたということがある*1

『山荘太夫』は説教節の演目としてよく演じられたもの*2で、1957年生まれの筆者にとっては『安寿と厨子王』として馴染みのある話だ。コトバンクの山荘太夫の項目にまとめられた解説の一つである、百科事典マイペディアの解説にはこうある。

説経節の曲名。またそれに登場する丹後国由良の長者。安寿(あんじゅ)・厨子(ずし)王の姉弟はこの長者のもとで奴婢(ぬひ)として酷使され,姉の自己犠牲によって逃れた厨子王は,やがてもと奥州五十四郡の主であった父のあとをつぎ遺領を回復,母と再会,山荘太夫らに復讐する。森鴎外の《山椒大夫》はこの物語に取材。山荘,散所,算所などの地名は各地にあり,山伏,陰陽師(おんみょうじ),遊行(ゆぎょう)芸人,説経の徒らが住んだ所という。山荘太夫もこの伝説を語り歩く説経の徒であったのが,作中人物の名となったものと思われる。

この厨子王が母と再会したときに母が口ずさんでいる、

安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。

は、私の年代やそれ以前の年代の人なら誰でも一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

さて柳田國男は『山荘太夫考』において、『山荘』とは『算所』であると結論している。『算所』とは『算置き』つまり民間陰陽師の集落のことだ。実は民間陰陽師は賤視の対象だった。特に陰陽師を指して差別する場合には『ハカセ』とよんだそうだ。民間陰陽師はそのルーツを天文博士や陰陽博士に仮託していたのだろう。もっとも柳田の『山荘』=『算所』という結論は間違っていて、『山荘』=『散所』であったことが判っている。散所をコトバンクから引いてみるとこんな感じだ。

本所に対する用語。古代・中世初期においては,律令制的な公的支配に属さなかった場所,国衙(こくが)の管轄外に存在した人々。中世社会の展開につれて,貴族・社寺に隷属して荘園制的支配下に入り,社寺の周辺や港湾,宿など交通の要衝地に集住。長者・長吏(ちょうり)にひきいられ,掃除,土木工事など過酷な雑役に従事するようになった。近世では,賤視された人々や,彼らの居住区をさすこともあった。散所民は長者によって奴隷制的支配を受けることが多く,説経節《山荘(さんしょう)太夫》は丹後(たんご)国由良(ゆら)の散所長者(大夫)による人買いの実態や暴力的支配の有様をいきいきと表現した作品。雑芸人(ぞうげいにん)となった散所民によって,流布されていったものであろう。

現代においても存在している被差別部落のルーツは多様であるが散所や算所は有力なものであったろう。世間じゃ陰陽師を自称する人が色々いるけど、こういったことを知った上でのことなんだろうか、と、工学博士で六壬使いという二重の意味でハカセな私は思うのだった。

何でこんな話をする気になったかというと、陰陽道研究家の木下琢啓さんが以下のコメントと共に動画を紹介していたからだ。

摂津歴代組陰陽師の拠点地区。


【学術】部落研究(69) 大阪府摂津市鳥飼野々1丁目

この動画では最初の方で鳥飼野々地区は通常の被差別部落とは異なっているとしている。
民間陰陽師は江戸時代に土御門家の支配下に組み込まれるけれども、有力なメンバーは歴代組とよばれるようになる。鳥飼野々地区は摂津歴代組陰陽師の拠点地区で算所であったわけだ。鳥飼野々地区が通常の被差別部落とは異なっているのは、算所がルーツであり散所ではないことの反映かもしれない。

こういった陰陽師被差別部落絡みの知識は30年くらい前には仕入れていたので、FSHISOメンバーが作った某PATIOで「漂泊の陰陽師が被差別民への差別解消の役割を担っていたのではないか」みたいな話が出たときに「陰陽師自身が賤視の対象なのに、そんなことあるかい」と食って掛かったことがある。まぁこんな認識で始まって、私の愛する占術がFashionable Nonsense*3の対象になってはかなわん、というちょっとした過剰反応だったというのが実の所だ。

*1:勘の好い人なら、鉦、簓、門付で、ああなるほどね、と察するんじゃないだろうか。

*2:五説教の一つ。

*3:確か当時はソーカル事件前だったと思うけど、哲学方面の格好だけつけた言葉の乱用には感づいてた。