あるいは宣明暦と符天暦
現代はともかく、古代から近世まで観象授時は王の大権であり責務だった。暦の作成のためには天体観測*1が必要になる。そして天体観測のためには、観測地点の位置*2情報と時刻の管理が必要になる。機械式の時計の無かった時代、時刻の管理は大変だったと思う。水時計は精度が問題になるし、また水の補給の問題がある。
結局の所、天体観測で水時計を較正して、較正された時刻を使って天体観測の精度を上げていくというサイクルを繰り返さないといけない。人・金・資材をバカのように消費したことだろう。そしてその観測データを基に、太陽や月の位置を推算する計算式を立ててからが、実際の暦作成の始まりになる。
朔望の日時や二十四節季の日時を計算して、月や日付を決定する。そしてを基礎として暦註を付加して行く。膨大な作業だ。日本では渋川春海が授時暦を日本用にカスタマイズするまで、天体の位置計算の計算式は全て中国からの輸入だった*3。
で、『ムック本というにはゴツイ』で、
信長横死の一因ともいわれる三島暦だけど、関東下向した陰陽師の1人である賀茂在持が作ったものだそうだ。
……
朝廷の暦道の技術が漏れるか、宿曜僧が持っていた符天暦の暦法を使う以外に地方で独自に造暦を行うことはできなかった。
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なお三島暦と京暦の食い違いは、京暦で採用されていた宣明暦が色々吉日が出やすいように小細工するシステムだったために発生した。
と書いたけど、京暦と三島暦に齟齬があったということは三島暦で採用されていたのは符天暦のシステムだったということになる。賀茂保憲は宣明暦の精度に対して危機感を持っていたそうで、符天暦-Wikipediaによると、
ということで、賀茂家が符天暦の計算式を持っていたのは確実なようだ。賀茂在持は宣明暦を見限っていたのだろう。