ムック本というにはゴツイ

陰陽道修験道を考える』を読む(その1)

現代思想から臨時増刊号として『総特集◎陰陽道・修験道を考える』が出た*1。ムック本ということだけど、分厚くて最終頁は462頁だ。私は祖父が山伏だったこともあって陰陽道の諸技術の民間普及に修験も大きく関わっていたのではないか思っているので、出版の情報を知った時に発注をかけた*2

陰陽道の研究は村山修一先生の『日本陰陽道史総説』を嚆矢として、それへの批判的研究から『陰陽道』は中国から来たものではなく日本の官僚機構として生まれて展開していったものだということが証明されてきた。しかしそれに対して、

  • 確かに『陰陽道』は日本固有としても、その諸技術の基層となっている陰陽五行論などの『術数』は、それを生み出した中国を中心に東アジア全体に拡散している。日本の『陰陽道』はその中でどのような存在なのか?
  • 陰陽師も修験も僧侶も神官も民間との接点では占いもすれば祈祷もする。では民間宗教者にとって陰陽道とは何だったのか?

といった疑問が出るようになってきた。このムック本はそういう機運の高まりから出版に至ったものだろう。

まだ半分くらいしか読めてないけれども野巫の六壬者としては色々発見がある。その発見の話をしようと思うのだけど、まずは残念な話から始めることになるのが残念だ。

大月隆寛先生*3がこんなtweetしてた。

このtweetには続きがあって『アカデミアや、アカデミアにアカデミシャンがてんこもりやヽ(゚∀゚)ノ』と来て『ザーコ♡』だ。

これらのtweetがなされた時点では、執筆者と論文タイトルくらいしか判明していなかったはずだが、大月先生は寄稿者がそろいもそろってアカデミシャンとしてザコとでも言いたいのだろうか。少なくとも管見でも梅田先生は柳田國男の頃から問題になっていた陰陽師と差別について広範で綿密な研究をされた方だし、斎藤英喜先生は多くの後進を育てながら陰陽道理解の裾野を広げる活動を続けられているし、高知の『いざなぎ流』のほぼ最深部まで調査を進めることができた研究者だ。

大月先生、そんな方々をザコ呼ばわりされるのは余りに非礼で残念な所作でないですか。陰陽道研究は大月先生の民俗学とも近い分野であって、少しサーベイかければ研究の現状はつかめるでしょうに、そういったサーベイもなしに他分野の研究者をザコ呼ばわりされたのなら非常に残念です*4

残念な話はこれくらいにして、まだ半分も読めてない段階だけど非常に興味深かった話を2つ程。

まず承久の変以降、鎌倉幕府のために関東下向して仕事をしたのは陰陽師だけではなかったというのが1つ。このブログでも触れたことがあった鎌倉幕府の御所移転に当たって、安倍国道ら陰陽師と珍誉法師との間で争論があった。この時、安倍国道は現職の陰陽権助*5だったというのは、このムック本で初めて知った。この争論では珍誉法師が当時最新であった山川道沢の四神相応を根拠にした若宮大路が採用されて安倍国道らの案は退けられた。これに関して、ちょっと面白いtweetをもらった。

なんで宿曜道?と思ったけれども鎌倉幕府に雇われていたのは、陰陽師の他に宿曜僧もいたというのも、このムック本で知った。園城寺興福寺の2つの系統の宿曜僧が鎌倉幕府に雇われていたそうだ。珍誉法師は興福寺出身だったので、もしやと思ったら珍誉法師が宿曜僧なのはよく知られていることだったようだ*6。こんな論文がある。

鎌倉幕府の宿曜師--特に珍誉について

宿曜僧も宿曜だけでなく、術数関係の知識を広範囲に学んでいたことがわかる。

さて発見の第2点、信長横死の一因ともいわれる三島暦だけど、関東下向した陰陽師の1人である賀茂在持が作ったものだそうだ。暦の作成のためには朔望と二十四節季の日時を計算しないといけないので、最低でも太陽と月の位置計算が必要となる。当時の日本には天体観測から計算式を作り上げる能力がなかったので、朝廷の暦道の技術が漏れるか、宿曜僧が持っていた符天暦暦法を使う以外に地方で独自に造暦を行うことはできなかった。

賀茂家の暦道の技術がベースとなって三島暦が生まれ、京暦と食い違いが起こり、信長はそれを採用せよと朝廷に迫った。観象授時は天皇の大権だったのだけど、信長はそれに頓着しなかったわけだ。なお三島暦と京暦の食い違いは、京暦で採用されていた宣明暦が色々吉日が出やすいように小細工するシステムだったために発生した*7

*1:Kindle版もある。

*2:確かamazonでまだ予約できなかったので、実家近くの書店で注文した。

*3:id:king-biscuit 大月先生が、はてなユーザだったのでIDコールかけた。2022/01/19追記

*4:サーベイの上でのザコ呼ばわりなら大月先生の研究者としての資質に疑問が湧く程の残念さですが。

*5:次長代理くらい?

*6:この辺りが野巫の六壬者の知識の限界ということだ。

*7:宣明暦うぜぇ』を参照のこと。