月建と月将再考

以前『月建と月将』というエントリをあげたことがある。今回、もう少し考えてみることにする。

月建

月建の『建』は斗建の『建』で、斗建は北斗七星の柄が指す方角のことだ。つまり天球の回転角を時刻表示した恒星時と直接に対応している。ということで月建というのは、平均太陽時に対する恒星時の進みに還元することができる。1年は365.24219平均太陽日で、これは時間として(365.24219+1)恒星日に等しい。平均太陽日で表した1年の日数をdとすると、1年はd+1恒星日になる。両者の比をとると、

\frac{d+1}{d}=1+\frac{1}{d}

となる。1平均太陽日毎に恒星日は\frac{1}{d}恒星日進んで行くことになる。1恒星日は24恒星時なので、

\frac{1}{d}恒星日=\frac{24}{d}恒星時

なので恒星時が平均太陽時に対して1恒星時進むのに必要な日数は\frac{d}{24}平均太陽日ということになる。これは恒気法における二十四節季の時間間隔に等しい。つまり、月建が平均太陽時に対する恒星時の進みに還元できるとした時、月建の節入日時は恒気法に従うことになるだろう*1

月将

北宋の沈括は著書『夢渓筆談』において月将の取り方について論じている*2

六壬天十二辰
亥日徵明為正月將、戌日天魁為二月將。
古人謂之合神、又謂之太陽過宮。
合神者、正月建寅合在亥、二月建卯合在戌之類。
太陽過宮者、正月日躔娵訾、二月日躔降婁之類。
二說一也、此以『顓帝曆』言之也。
今則分為二說者、蓋日度隨黃道歳差。
今太陽至雨水後方躔諏訾、春分後方躔降婁。
若用合神、則須自立春日便用亥將、驚蟄便用戌將。
今若用太陽則不應合神、用合神、則不應太陽。
以理推之、發課皆用月將加正時如、此則須當從太陽過宮。

改行を適宜付加した。また句読点は見慣れたものに変えた。

沈括の時代には月将の取り方に二説あったことがわかる。一つは月建に支合する十二支を月将とする。もう一つが太陽過宮から取る、というものだ。沈括は、本来はどちらも同じであったのに、歳差運動によって二つに分かれてしまったと総括している。沈括の時代は歳差運動の蓄積によって、太陽は雨水になって諏訾、春分になって降婁に入るようになっていた。古い時代には、太陽は正月には諏訾、二月には降婁に入っていたので半月くらい遅れるようになっていた。沈括は太陽過宮が本来の月将の取り方なので、それに従えと主張している。沈括の言い分が受け入れられた結果、月将はサン・サインとして中気で切り替わるようになった。なので月将は定気に従うことになるだろう。

もっとも沈括は歳差運動を受け入れて、月将だけではなく月建その他全てを改定しろと引用に続く文章で主張している。リンクは貼ってあるので、興味のある人は読んでみると良いと思う。沈括は結構ラジカルな人だったようだ。

*1:もっともこの考察によれば、恒気の起点は冬至ではなく春分になってしまうのだが。

*2:夢渓筆談『巻七象数一』の第2段落