徳川家康の生年干支*1
徳川家康の生年干支について問題があるそうだ。
- 家康は天文十一年十二月二十六日生まれである。
- 天文十一年は壬寅である。
- 征夷大将軍に任命された家康は、陰陽頭土御門家に慶長八年二月十二日に天曹地府祭を行わせたが、都状には「六十一歳癸卯年」との署名がある。
これについては既に、大石眞行さんが『どっちだ家康』のエントリで考察していて、家康の誕生日は既に立春を越えていたので、都状には「六十一歳癸卯年」と書いたのだろうと結論している。
このブログエントリではメトン周期を使って、家康の誕生日が立春を越えていたかどうかを詰めてみることにする。
メトン周期は19太陽年は235朔望月にほぼ等しいことから得られる周期で、通常は19太陽年ということになる。つまりメトン周期である19年毎に太陽暦と太陰太陽暦の日付の対応関係の一致した暦が得られることになる。
例えば朔旦冬至であった2014年は12月22日に十一月一日だった。その19年後の2033年も12月22日に十一月一日となる。余談だがメトン周期は二十四節気との対応までは保証してくれなくて、2033年の冬至は十一月一日よりも早いため朔旦冬至にはならない。これが天保暦の2033年問題の原因の1つとなっている。
話を元にもどすとメトン周期毎に「ほぼ等しい」対応関係の太陽暦と太陰太陽暦が得られるわけで完全に等しいわけではなく219太陽年で、ほぼ1日のズレが生じる。
さて家康が生まれた天文十一年十二月二十六日を西暦に直すとユリウス暦1543年01月31日となる*2。
1543年から25メトン周期経過すると、
つまり2018年の太陽暦と1543年の太陰太陽暦の日付の関係はほぼ同じとなる。1543年にはまだ現行のグレゴリオ暦は実施されておらずユリウス暦であったけれども、家康が生まれた日である天文十一年十二月二十六日がメトン周期を使うことで1543年にグレゴリオ暦があったと仮定した場合の家康の誕生日がグレゴリオ暦で何月何日だったかが判明する。
グレゴリオ暦2018年2月で太陰太陽暦の十二月二十六日となる日を探すと2月11日になる。ただし1543年から219年を2回経過しており2日くらいのズレが発生している。これを考慮して前後2日とっても9~13日となる。どう考えても家康は立春を過ぎて生まれている。
普段は天文十一年生まれなので壬寅としながらも、正確な生年干支が必要な時は癸卯としたのだろうという大石さんの推論は正しいと思う。
少し推論を逞しくするなら家康はずっと壬寅生まれと思っていたのに、天曹地府祭の打ち合わせで陰陽頭の土御門久脩辺りから「立春過ぎてるので本当は癸卯生まれですよ」と聞かされて驚いたのではないだろうか。何より三寅の方が恰好好いだろうし。なんか今だと1月生まれの人が四柱推命とか習って生年干支がまだ昨年のものと知って驚くようなものだろう。
*1:1月17日に加筆修正を行った。
*2:変換には『和暦から西暦変換(年月日)』のサイトを利用した。