宣明暦うぜぇ

先日のエントリに、id:BUNTENさんからブコメがついた。

[地方][歴史][科学]江戸期、薩摩藩は独自の暦の作成を認められていたというが(観測所が天文館とか)江戸との時差を追求したら前例が見つかったりするのだろうか?

これで思い出したのだことがある。織田信長本能寺の変で横死する直前に、京暦ではなく三島暦の採用を朝廷にはたらき掛けていた。この件は信長の死によって有耶無耶になったのだけれども、そのために国内で流通する日付の異なる暦が出現してしまうことになった。これは時間を一元的に支配してきた朝廷にとっては、信長の横車を通すよりも不味い事態だったのではないだろうか。

さて、この三島暦と京暦の違いが、太陰太陽暦の地域性から来るものかどうか調べてみたところ、当時採用されていた宣明暦の問題で閏の置き方が変わったためらしい。改暦 - Wikipediaにある『宣明暦の改暦』の項目によると、宣明暦のシステムでは以下の項目について、暦を操作することになっていたのだそうだ。

  • 朔旦冬至の実現及び回避・臨時朔旦冬至の回避
  • 四大の回避
  • 閏八月の回避
  • 閏月によって発生する日数の過大を抑えるため
  • その他

で、件の年はメトン周期である235ヶ月の始まりの月には閏八月を置かないという宣明暦の縛りが、何月かを決める実際の中気と齟齬があった。そのため宣明暦に忠実な京暦と実際の中気と朔望月に忠実な三島暦で、月の置き方が異なってしまったのだそうだ。

個人的にはこんなグジャグジャした宣明暦のシステムって好きになれないな。