陰陽五行というけれど

陰陽説 vs 五行説

今は一口に陰陽五行と言っているけれども、世界の成り立ちを説明しようとする試みにおいて、陰陽説と五行説は対立するものだった。それを中国戦国時代の陰陽家であった鄒衍(すうえん)が五行内部の陰陽の配分を決めることで、陰陽説と五行説を統合することに成功した。確かそうだったと思う。多分、鄒衍の時代には易も数ではなくて陰陽で語られることが主流になってきていたのだろう。陰陽の積み上げによる詳細化が五行の中での陰陽配分というアイデアに繋がったのではないだろうか。

ただこの統合は完璧なものでは無かった。例としてもっともハッキリしているのが『水』になると思う。五行の水行は陰陽で言えば陰になる。そして易の坎卦は陽卦だ。『説卦伝』は言う、坎は水であると。

坎者水也。正北方之卦也。勞卦也。萬物之所歸也、故曰勞乎坎。

原文は例によって雨粟荘さんの所から御借りした。ということで、鄒衍をもってしても陰陽説と五行説の完全な統合は無理だったようだ。

そういえば五徳終始説を知った時はちょっとしびれた。放伐による王朝交代は五徳の五行の相剋になるし、禅譲による交代は相生になる。例をあげてみよう。

  • 堯(金徳)→舜(水徳)→禹に始まる夏王朝(木徳)は禅譲であって五行は相生している。
  • 夏(木徳)→商(殷)(金徳)→周(火徳)は放伐であって五行は相剋している。

そして周を含めて中国を武力で統一した秦はイメージカラーが黒で水徳とすれば水剋火となり、ある程度の予測も可能だ。もっともこの王朝の徳の分類は後世に都合に合わせて作ったみたいだけどね。