どっちかというと殆(あやう)い方かな

論語為政篇

論語の「為政*1第二」にこんな孔子の言葉がある。

子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
(子曰ク、学ビテ思ハザレバ則チ罔(くら)ク、思ヒテ学バザレバ則チ殆(あやう)シ。

つまり誰かが言ったり書いたりしていることを鵜呑みにして、自分でそれについて自分なりの考えを持つことができないようでは、理解したとはいえず罔(くら)いままだし、自分で考えるだけで他者の理論を検討することがないままでは殆(あやう)いよ、ということだ。

後者はtwitterとかで見かける「ぼくのかんがえたさいきょうの○○」がその例だ。私自身も罔(くら)いか殆(あやう)いかと言われたら、殆(あやう)い方だ。私がどれくらい殆(あやう)いかというと『坐向の測り方』というエントリでやってるように、玄空飛星の盤から大成卦を起こして、その大成卦から吉凶象意を引っ張っていたりする。内藤文穏公の遁甲挨星から星が二つあれば大成卦が取れるんじゃないの?という思い付きでやってるわけだ。玄空飛星をちゃんとやった人は思い付きもしないことだろう*2

考えてみたら、大学時代から学びの少ないタイプだった。多分、思う能力はそんなに低くない方だったのに学びが薄かったのが、私が物理学者には成れなかった大きい理由なのだろう。今思うと直接の指導教官だった三宅正司先生から見たら、私は非常に歯がゆく見えたのではないだろうか。三宅先生は毎朝、論文を1つは読んでから出勤してくるような、学びの充実した先生だった。

今でも占術関係の蔵書は非常に少ない。もっとも占術の世界では、私の学びの少なさをカバーしてくれる畏友達がいてくれた*3。御蔭でここまで来ることができた。畏友達との出会いの場を作ってくれたFFORTUNEには感謝している。

*1:『学而』の文字があるので学而篇と勘違いされていることがままある。

*2:これについては後日、黒門さんに笑われた。

*3:つまり大学時代の私は学びの少なさの部分は三宅先生に尻拭いをしてもらっていたというわけだ。