ちょっとモニョる
私の昨日のエントリを受けて、わっとさん(id:watto)は件のエントリを修正・追記されたのだけど、
www.watto.nagoya
追記2で引用されていた、伊勢田さんの文章にはちょっとモニョる。
しかし彼はまた同時に有力な占星術師でもあった。ただしケプラーにとって占星術はあくまで飯の種だったようで,「占星術は天文学の愚かな娘だがその娘の娼婦稼業で天文学は養われている」と書き残している。
これは実際そうなのだけど昨日のエントリに書いたように、ケプラーは占星術に対して大きな貢献をしている。アスペクトといって現代では星と星との間の角度が特定の値近傍にあるとき星の働きが素直に現れたり、努力しないと星が働かないといった判断をする。
このアスペクトは古典的な占星術では黄道十二宮(サイン)の間の角度についてであったものを、ケプラーは星と星との間の角度として再定義し、それが受け入れられて現代占星術につながっている。
こういう貢献をしたケプラーが占星術を『あくまで飯の種』として考えていたかというと、そうではなかっただろうと私は考える。
余談だけど、同じく伊勢田さんの文章、
しかし,ニュートンはニュートンで,占星術と並ぶ「ヘルメス的科学」である錬金術の実践家であったことが知られている。ニュートンの遺稿の中にはヘルメス文書のニュートン自身による翻訳と注釈を含めて大量の錬金術関係の文献があり,とても片手間で錬金術を研究していたというわけではない。「片手間」ということでいえば,数学や力学を研究していた期間の方がよほど短く,そちらの方が片手間といえるかもしれない。
も、↓の動画でヘイズ中村さんが語っているように、ニュートンが行った錬金術の研究が魔術師・錬金術師としてのものであったか?ついては、現代の魔術師においても結論は出ていない。
ニュートンと魔術 奥義書 水晶球 居皆亭(いるみなてい)Vol.26 ヘイズ中村 4/6
なので私にとっては、やっぱりちょっとモニョる。
古典占星術が古典であるためには?について私見による暴論
以下は門外漢による暴論と考えてもらって善いのだが、古典占星術が古典であるための最大の要素は、宮(サイン)の縛りを絶対とみなすかどうか?ではないだろうか。アスペクトは本来宮と宮の関係であり、室(ハウス)の区切りもまた宮(サイン)と一致するホール・サインシステムを採用する、こういうサインの縛りから離れない、これが古典である最大の要因ではないだろうか。
もっとも、この宮(サイン)の縛りを絶対のものとすると不都合が起こるのは判っている。中緯度帯では黄道と子午線の交点であるMCと黄道と地平線との交点であるASCの間の角度が90度になる保証が全くないので、ホール・サインシステムではASCがある宮を1室とするとMCが10室に納まっている保証がない。
現代のハウスシステムの主流であるクウォドラント型のハウスシステムはどれも、ASCが1室の、MCが10室のハウス・カスプとなるようにできている。そしてクウォドラント型のハウスシステムを実現するためにはハウスカスプを宮(サイン)の縛りから開放する必要があった。
もっとも極端な状況を考えるとASCの挙動は極端なところがあり、クウォドラント型のハウスシステムに問題がないわけでもない。
hokuto-hei.hatenablog.com