『勁』

ここ何年かは春の御彼岸には実家に帰って、そのついでに圓寂坊御師さんを訪ねることにしている。圓寂坊の御師さんは真言宗の僧侶なので、自然、御釈迦さんの悟りの話とか神秘主義関連の話が多くなる。

今回もアスペの実験によって、実在・局所性のどちらかが破れているという話から色々盛り上がった。ネットでは局所性が破れたのだという話を見聞きすることが多いけれども、日経サンエンスだと実在性の方が怪しくなったという考え方の方が主流のようだ。ただ、多くの量子がもつれている場合には、それらがお互いに実在性を担保しあっている。これは正しく諸行無常の世界だろう。

その実在性の話から、人間は実は脳が五感を基に構築したバーチャル・リアリティの世界を生きているという話に飛ぶ。そのバーチャル・リアリティは現実生活をおくる上で、感覚との齟齬が小さくなるように構築されているのだが、それは局所最適化の結果であって、真の最適化はなされていない*1

そういった事を話していて、ふと以前の『はてな日記』で、御釈迦さんは臨終の時に何を思ったのだろうといった話を思い出して、「御釈迦さんも臨終の時に何も心残りがなかったとは思えないんですよ。まだ弟子を色々指導したかっただろうし」と言ったら、

松岡さん、それは違うよ。
御釈迦さんが悟りを開いた時の絶望感が理解できてないよ。
この悟りを他人に伝えることは不可能だ、と御釈迦さんは考えたんだよ。

と窘められた。阿難尊者が悪魔に惑わされて「御釈迦さん、もっとこの世に留まって下さい」と言わなかった結果、御釈迦さんは入滅してしまう。御釈迦さんとしては、心残りがないどころではなく、「やっと、この世と縁が切れる」くらいなものだったようだ。

ところで一方、御師さんは武術家でもあるので武術の話も大変面白い。私は口先ドラゴンなので大変ためになる。今回も体験を含めて色々考えるネタをもらった。

相手の左の突きを右手で防いだ状態から、右手に受ける相手の左手のチカラが変化しない状態では、相手が右手で攻撃してきた時に何の反応もできない*2。この時、攻撃側で重要なのが聴勁だ。つまり受け手が別方面からの攻撃に反応できなくなるようにチカラを加減して加える必要がある。その反応を察知するための聴勁だ。

聴勁の優劣があった場合、聴勁に優れた側は相手をコントロールできてしまう。聴勁も勁であり、勁なので攻撃に使うことができる、これは発見だった。

*1:真の最適化がなされた状態が悟りを開いたということなのだろうか?

*2:よく訓練された武術家ならどうか判らないけれども、私のような口先ドラゴンでは確実にそうなる。