以武会友

どうも拳児の解釈は違うみたいだ

私の愛読書の一つである『拳児』で初めて見た言葉の一つに『以武会友』がある。暴力沙汰絡みで底辺高校に通うことになった拳児だけれども、早速相撲部の不良に目を付けられて土俵で稽古という名のリンチに逢う。そしてそれを八極拳で撃退してしまう。この件が学校側の察知するところとなり、首謀者であった相撲部の部長を退学だったか停学させるかどうかという会議が開かれる。拳児はその場で教師の追及にもかかわらず「稽古でした」と言い張る。拳児を見ていた校長は「以武会友という言葉がある。愉快だ。」とか言ってリンチの件は不問となる。この話の流れから感じる『以武会友』はジャンプ的な「タイマンしたら友達」って感じだけど、実際はどうも違うみたいだ*1

もう回収されて読めなくなってる御師さんの台湾雑話での『以武会友』は「オレと勝負するヤツ募集*2」みたいな感じで挑戦状といったところだ。確かこんな話に出てきた。

腕に覚えのある武術家が弟子とともにとある地方を訪れ、街のあちこちに『以武会友』の張り紙をする。
ところがとあるオジサンが字が読めなくて意味が解らずその紙で豆腐を包んで自宅に帰ってしまう。
面子を潰されたと激怒した当の武術家は、そのオジサンをギタギタにしてやると勝負を申し込む。
ところがオジサンの奉公先というのが莫家拳を伝承する家で、その家の主人は「オレの面子を無視して勝負にこだわるというなら、それもよかろう。ただアイツは唯の素人だ。1月くれ、その間にアイツを仕込むから。唯の素人を弄っても面白くないだろ。兵器ありの勝負で良いよな。」
という形でオジサンに莫家の棒術を仕込む。実はオジサン、毎日の労働で足腰が鍛えられていたので、歩法を含む身法を仕込めば勝てるというのが莫家の主人の予想だった。しかも莫家の棒術は一つの技の終わりが別の技の始まりになっているので、初手で先手が取れれば勝てるというわけだった。
実際の勝負では、オジサンの最初の一撃を件の武術家が判官筆で受け止めた後は、オジサンが切れ目なく攻撃を続けて勝った。

こういう『以武会友』みたいな言葉は色々あって、例えばちょっとした話題になった「この分野は素人なのですが」もその類で『以理会友』といった趣がある。もっとも科学者というのは自分の理解が仮説であり近似であることを知っている人種なので「タイマンしたら友達」の面がないこともない。

私も後方に退いているとはいえ科学者の尻尾は大事にしているつもりなので、自分の間違いを指摘されると相手によっては「何だ、コイツ」と思うこともあるけど、間違いの指摘には感謝することにしている。もっとも科学者の尻尾があるので孟子の「自反而縮、雖千萬人吾往矣。」も忘れたことはない。この辺りが私が怖い人枠の原因なんだろう。

知人がブログで少し挑戦的なことを書いていたので色々思ってしまった。

*1:こういう誤解を招く話作りも松田隆智さんの功罪の罪の部分だろう。

*2:あるいは「比武ジョートー」