そうか悪左府か

台記

先日の『指神子の占例』について、安倍泰親の答申が正式な天文奏であったのかどうか知りたくなって陰陽道家の高橋圭也さんに問い合わせてみた。すると早速の返信を頂いたのだが、高橋さんからは以下の指摘があった。

  • 古事類苑の件の記事は『台記(たいき)』からの引用であることに注意するべき。
  • 安倍泰親への依頼は、台記の著者である藤原頼長からの私的なものであった可能性がある。
  • 藤原頼長悪左府と呼ばれ、保元の乱の首謀者である。

それで高橋さんからのサジェスチョンに従って、「神道大系論説編16陰陽道」の「安倍泰親朝臣記」を調べてみた。この記事は安倍泰親から出た正式な文書を集めたものだ。調べた範囲では久壽二年には泰親は天文奏を行っていない。つまり泰親の天変判断は私的な依頼によるもので、重大な規則違反であり事件化されれば遠島ものだったらしい。

ところで件の記事だが、

久壽二年七月廿六日辛未、深更月犯太白、即使人問泰親、使者歸來云、泰親立地仰天、 廿七日壬申、泰親、月犯太白、天子惡、〈先帝崩象歟〉母主惡、〈關白殿北政所、將薨象歟、〉立太子皇子歟、

『〈先帝崩象歟〉』や『〈關白殿北政所、將薨象歟、〉』の『〈〉』でくくられているのが頼長の感想ないし判断であるのなら、『天子惡』で鳥羽法皇が近々崩御する可能性に思いが到らなかったことが頼長の命を縮めてしまったといえるだろう。

藤原頼長悪左府といわれながらも権力を保っていられたのは、鳥羽法皇の信任があってのものだったわけで、次年の鳥羽法皇薨去以降の頼長は急速に権力を失い、結局のところ崇徳上皇をかついで保元の乱を起こすまで追い詰められてしまう。保元の乱で頼長は首に矢を受けて、それが元で命を失った。

もし頼長が鳥羽法皇薨去の予感をもって手を打っていたなら、薨去以降も権力を保った可能性はあるわけで、もしそうであったなら保元の乱自体が発生していなかったことになる。結果、武士の台頭は大幅に遅れたことだろう。多分天変判断を行った泰親にとっても、ここまで歴史的に重要な天変判断であったとは想像もできなかっただろう。

2011年10月15日付記

玄珠さんからコメントをもらって気になったので、天文シミュレータのステラナビゲータで確認してみたところ、丑刻に月が昇ってきたときには既に金星が月の陰に入っていたことが確認できた。

この蝕はユリウス暦1155年08月26日の午前2時頃には発生していたのだが、大きな問題が1つあって、この日は久壽二年七月二十六日ではなく二十七日に対応している。可能性としては、実際には日が改まっていたにも関わらず、頼長がそのまま二十六日の深更と記述したことが考えられはする。

しかし台記の記述の正誤のチェックが必要になったことには変わりがない。なので実際の課式や天地盤がどうなっていたのかは、今のところ不明である。