指神子の占例

月による星蝕

國分秀星さんのサイトである“The Warrior of Astrology”に『陰陽道の金星』というちょっと面白いエントリがあがってた。

これは久壽二年七月二十六日*1の深更*2に発生した月が金星を蝕した星蝕についてのエントリである。安倍泰親はこの蝕を占って、天皇、母主や皇太子についての凶兆と判断したのであるが、國分秀星さんは金星が指す将軍について触れられていないのは何故かと疑問を呈しつつ、西洋占星術の立場からこの星蝕を見るとどうなるかを解説している。

私なんかだと、そら六壬使って将軍は関係ないと出たからに決まってるじゃん、とすぐに結論してしまうわけだけど、六壬について知らないなら仕方がない。

ところで安倍泰親は『指神子(さしのみこ)』と呼ばれた達人で10に8、9は当てた人だと言われている。また時に当時の六壬の常識から外れた判断をして、またそれが当たる人だったらしい。

ところで國分秀星さんのエントリから、MCが金牛宮にあって太陽が処女宮にあることが分かるし、該当エントリに古事類苑の該当記事へのリンクがあるので、星蝕があった日が辛未であったこともわかる。そこで六壬の天地盤と課式を立てて、指神子が星蝕をどう読み解いたか考えてみたい。一応、古事類苑の記事を引用しておく。

(本文)
久壽二年七月廿六日辛未、深更月犯太白、即使人問泰親、使者歸來云、泰親立地仰天、 廿七日壬申、泰親、月犯太白、天子惡、〈先帝崩象歟〉母主惡、〈關白殿北政所、將薨象歟、〉立太子皇子歟、

(読み下し)
久壽二年七月廿六日辛未、深更ニ月太白ヲ犯ス、即チ人ヲ使シ泰親ニ問ウ、使者歸リ來リテ云ク、泰親地ニ立チ天ヲ仰グ、 廿七日壬申、泰親、月太白ヲ犯スハ、天子ニ惡ロシ、〈先帝崩ノ象歟〉母主ニ惡ロシ、〈關白殿北政所、將ニ薨ズルノ象歟、〉立太子ノ皇子歟、

(大意)
久壽二年七月二十六日辛未の日の夜更けに月が金星を隠す星蝕があった。(凶兆であるので)人を使わして安倍泰親に占わせた。使者が帰ってきて言うには、泰親は地に立って天を仰いだとのことだった。二十七日壬申に泰親から以下の答申があった。月が金星を蝕するのは天皇に悪いことがあります。〈先帝が崩御したことの象徴か?〉位の高い母に悪いことがあります、〈關白殿の北政所が亡くなろうとしていることか?〉皇太子かもしれません。

この時刻の課式は近代六壬であれば別責課をとるが、安倍泰親の時代には別責課はまだなく昴星課を取ったはずであること、また当時は寅刻から昼貴人となるので、天地盤と課式は以下のようになる。












































































































 




































おそらく泰親は星蝕から凶事であるとの前提に立って、どのような凶であるかを推測していったはずだ。課式は昴星課で発用午を制するものがない上に東の地平線1室に臨んでいることが凶事を裏付けている。そいて一課が大吉(丑)だが墓神、しかも坐空で脱気となっている、また上昇宮において発用午に勾陳が乗じている。これらから人死は避けられないというのが泰親の読みだったのではないだろうか。泰親は地面に降り立って天を仰いだとされている。

ではどこら辺りから「天子惡、母主惡、立太子皇子歟」が出てきたのだろうかと考えると、

  • 10室官禄宮に白虎が来ているところから、天皇、皇太子
  • 同じく10室官禄宮に白虎が来ているところから、母親
  • 墓神の一課に天后が乗じているところから、再度母親

を引っ張りだしたのではないだろうか。

泰親のこの不吉な占いは、その次の年に鳥羽上皇崩御という形で実現してしまう。

*1:同エントリによればユリウス暦1155年8月26日らしい。

*2:と言いつつ寅刻にあったので早朝というべきか。