新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる

これは足柄山の麓から甲斐の酒折宮に到った日本武尊命が、東国での出来事を振り返って「新治から筑波を過ぎたが、幾夜寝たのだったかな」と詠んだものだ。これを聞いた火の番の翁は、

日々並べ、夜なら九夜、昼なら十日を

と合わせている。「日数はというと、九夜が過ぎました。十日目の昼です。」くらいの意味だろう。このことから日本武尊命の時代には、「夜が明けて日が変わるとされていたことがわかる。」と古文の授業で習ったことがある。チベットの暦なんかでも日の境界に、日の出の時刻を採用している。

この夜が明けて日が変わるという感覚は、平安時代でも一般的だったようで、先日の藤原頼長の日記についての追記に、

可能性としては、実際には日が改まっていたにも関わらず、頼長がそのまま二十六日の深更と記述したことが考えられはする。

と書いたのだが、頼長にとっては夜明け前、つまりまだ二十六日のままだったわけだ。これについても高橋圭也さんから以下の指摘を頂いた。

さらに日本では1日の終わりを翌日の夜明け前までとし、夜が明けてから翌日が始まると考えていましたから、今回の頼長の日記の日は「26日」でよいのです。

ただ安倍泰親が課式を作成したとしたら、辛未日で作ったのか壬申日で作ったのかは、今の私の知識では不明なままだ。もう1つ、丑刻で天地盤を作ると天地が全て会の関係になり、人死の占いにはなりそうもないんだよな。