命占と卜占

個人個人について、その人の特性とその利害得失や一生の間に巡ってくる運勢を占うことを『命占』、個々の出来ごとについてその帰趨を占うことを『卜占』とよんでいる。『命占』で使用される『命術』の代表的なものに、四柱推命紫微斗数がありこれらは生年月日時をトリガにして占う。『卜占』で使用される『卜術』の代表的なものに、周易六壬神課がある。周易はその場で出す乱数を、六壬神課は占う時刻をトリガとしている。

余談だけど、日本では血液型性格分類みたいなものが占いヅラをして蔓延っているけれども、こいつには巡ってくる運勢を算出するロジックが存在しない。つまり命術としては欠陥品だ。ついでにいえば、ABO型の血液型と性格分類の間には強い相関はない。結局、血液型性格分類は、飲み会であの人はB型だから云々といったカジュアルな差別をするときのネタでしかない。

閑話休題。しかしながら紫微斗数で卜占ができないかというと、そんなことはなくて紫微卜占もあるし、六壬神課を使った命占もある。やろうと思えば周易で命占だってできるだろう。このように術毎に命占と卜占の境界の曖昧さがある。

先日の日記で、占いの公理の1つである『意味のない偶然は存在しない。』について、

更に言えば、あなたという他人が私のところに占いを依頼しに来た、これだって偶然だ。

と書いたが、これは命占、卜占に限った話ではない。そして術内部での命占と卜占の境界の曖昧さとは別に、占うということそれ自体においても命占と卜占の境界の曖昧さが発生する。このことについて最初に考える手掛かりをくれたのが、畏友、大石真行のエッセイの『占機の大事』というエントリだ。これには、

これは切り立った占的を扱う占卜では尤もなことと考えられるが、命術は一般に学問的、体系的であるので占機における真剣性など関係ないように思われる。
いつ、どこで占ったって元データが同じなら命式や行運が変わるわけではなし、と私も昔は思っていた。だから命は術ではなく命学なのだなどと考えもした。
今、私はかつての不明を恥じる。
違うのである。

とある。これを読んだ時思ったのは、命占の中に卜占があったり、卜占の中に命占があったりするのではないか、ということだ。少なくとも卜占の中に命占があって当然という気はする。つまり依頼人がどういった運勢の中にいるのかが把握できてないと、吉凶の判断がうまく付けられないということがあるわけだ。

命占の中に卜占がある例は、昨年、来日されたマギー・ハイド師が講演の中で見せてくれた。ある人が偏屈な叔母がなくなったとき、一丁のFish Knifeを遺産として貰ったのだそうだ。裕福な叔母だったらしいし、それなりに付き合いもあったので、一丁のFish Knifeだけだったというのは、その人にはそれなりにショックだったらしい。

その人は西洋占星術のできる人で、亡くなった叔母のホロスコープをマギー・ハイド師に見せながら、ホロスコープから叔母の偏屈さを読み解いていったのだそうだ。確かそのホロスコープには、火星と海王星が鍵を握っていて、この両者による『解放』が読みとれたのだそうだ。そして、海王星、海、魚、火星、鉄、刃物の連想からFish Knifeが導き出された。その時、その人は叔母からFish Knifeが贈られたことの意味を知って、叔母への不満は消え去ったのだそうだ。

出生のホロスコープから個人の特性を読み解いていく。手続き上は全く普通の命占といえるけれども、その効果は目の前にあった叔母への不満の解消という、全く卜占的なものだった。

こういったことを踏まえて、最近は純粋な命占や卜占はないのではないかと考えている。