かなり強烈な体験だったようだ

idコールがあった

www.watto.nagoya
わっとさん(id:watto)からidコールがあった。なんでも西洋占星術による鑑定で強烈な体験をしたようだ。
idコールの内容は、

ときに、「はてなー」の 北斗柄(id:hokuto-hei)氏は、理系の博士号をお持ちだが、易経ベースの東洋占星術をライフワークとされている(間違ったことを書いていたらごめんなさい)。

東洋占星術から見たら西洋占星術はどのように位置づけられるか、西洋占星術から見たら東洋占星術はどのように位置づけられるかに、ちょっと興味がわいて、ブログ過去記事を検索させてもらった。手に負えないくらいの記事がヒットした (^_^;

だったが、これはちょっと応答に困る。中国占術という深淵を私よりも深くもぐっている人達にとっては、十干十二支、五行の全てが易理に還元されるものらしい。けれども私のレベルはそこまで深くない。結果、私が研究している、六壬紫微斗数四柱推命といったものが易経ベースかと問われると、「私としては違うと考えている。でも人それぞれだ。」と答えることになる。

さて『東洋占星術から見たら西洋占星術はどのように位置づけられるか、西洋占星術から見たら東洋占星術はどのように位置づけられるか』についてだけど、後半の部分『西洋占星術から見たら東洋占星術はどのように位置づけられるか』については、近代になってキリスト教の宣教師達がズンドコ中国にやってくるようになるまでは、中国の文化・文明の西洋への輸入はインドという混沌としたバッファを介してのもの*1だったので、あまり判ってない。

前者の『東洋占星術から見たら西洋占星術はどのように位置づけられるか』については、西洋占星術は中国占術に強烈な影響をもたらし、中国文化に咀嚼吸収される中で様々な占術を生み出した、ということになる。そしてその背景には音楽理論における音階、特に自然音階についての共通の理解があったのではないか?と私は推測している。

中国への西洋占星術流入は、大きく分けて2回あった。1stインパクトは、戦国時代から前漢にかけての、BC403~AD8の400年くらいの間にあった。1stインパクトによって六壬神課が生まれることになった。六壬神課の天地盤は古代のホール・サインシステムによるハウス分割を使ったホロスコープ、ただし星の代わりに十二天将が入る、となっているのは、この日記でも度々書いてきたことだ。

2ndインパクトは唐の時代にあった。七政四餘というホロスコープ占術をベースとしながらも中国の吉神凶煞のゴッタ煮みたいなものが生まれた。この中には、後世、アラビックパーツとよばれるようになる天体ないしハウスカスプといったものから計算される星と同じような作用を持つ感受点といったものも含まれていただろう。この感受点を実在天体ではなく太陰太陽暦から計算したものに置き換えることで紫微斗数が生まれたのではないか?と私は考えている。

七政四餘には十干化曜星がある。古典的七惑星とノードやリリスといった月の軌道要素から計算される感受点やその他の感受点の内の10個に十干を当てはめて、多分、生年干からみてその星の十干が何からから算出される新たな星、それが十干化曜星だ。これはそのまま四柱推命の通変につながって行く。また四柱推命の月律分野蔵干はデーカンの影響を受けて生まれたものだろう。つまり『四柱推命』という非常に中国占術らしい術もまた西洋占星術の影響で生まれたものだということになる。ひょっとしてだけど、この月律分野蔵干は、インド辺りを経て西洋に逆輸入されて、デーカン・ルーラーの再編につながった可能性はある。

また紫微斗数が成立した後に、再度、西洋占星術を組み込みなおそうという形で成立したのが、十八飛星策天紫微斗数だろう。以上、一部でも、わっとさんへの回答となっていたら幸いだ。

今はこうしてidコールをもらうくらいの間柄ではあるけど、わっとさんとの出会いは今はなきニフテイの現代思想フォーラム(FSHISO)で、わっとさんは体制内改革派、私は体制外改革派だったので対立することもあった*2。『底知れぬ暗闇の悪意』なんていう中二受けする二つ名を頂戴したのもこの時代だった。FSHISOを含めたニフティのフォーラムが無くなってからの方が身近になった気がする*3

わっとさん、私の六壬を受け継いでくれた富永祥玲さん刈谷で営業してます。興味があれば宜しく。

*1:ヘイズ中村さんによる。

*2:手強かった。

*3:id:BUNTENさんとかも。