『月建』と『月将』

月の指標2つ

20141213193613
星座の日周運動

この『はてな日記』へのアクセスのリファラを眺めていたら『「月将」と「月建」の意味が掴めなくて、私キーっとなって』しまう方がいらっしゃったので、今更ながらに『月建』と『月将』について説明してみることにする。

占星術的な観点に立てば、恒星は天球に張りついていて『日周運動』とよばれる、天の北極を中心とした回転運動をする。これは地球が自転していることの反映でもある。引用した図*1はそのことをしめしている。古来から東アジアでは北斗七星を日周運動の指標としていた。北斗七星の柄が指している天球上の方角は『斗建』とよばれている。そのために『建』には動詞として『おざ(す)』の訓があるというのは、以前、この日記でも触れたことがある

さて天球が1周するのは1恒星日なので1平均太陽日よりも少しだけ進んでいる*2。この進みが累積して行くと1年で丁度1恒星日になる。そのため特定の平均太陽時に斗建を観測すると斗建の回転角が変化して行くことになる。そこで斗建がある一定の範囲にある期間を1ヶ月として、その一定範囲内の斗建を『月建』とよぶことになった。月建の『建』は斗建の『建』であり、旧暦中段の十二直の最初の『建』でもある。十二直の建は月建が変わって最初の月建支と同じ日支から建が始まっている。一般的には、建を『たつ』と訓じているけれども、私は『さす』の方が正しい訓だと考えている。そして恒星時が地球の自転に基づく時刻であり、恒星時と平均太陽時とのズレを指標とする月建は赤道座標に基づく『月』と考えることができるだろう。

一方、月将の十二支は太陽過宮に基づいていて、太陽が黄道のどの位置を占めているかを指標としたものだ。これは黄道十二宮と一致する。月将の十二支は月建の十二支の成立後に、シルクロードを経由して西方から持ち込まれたものだ。といってもその時代は、中国の戦国時代を遡ることはないが、前漢東漢)より下ることはないという古さを持っている。この月将の十二支を使用する占術で代表的なものは六壬神課と七政四餘だが、六壬神課の成立は月将の十二支が中国に到来した頃と考えてよいだろう。それは六壬神課では酉=従魁が昴と同じものとして扱われており、これはギリシャホロスコープ占星術が一応の成立をみた頃と同じく、金牛宮が星座としての牡牛座と一致していた頃の記憶が六壬神課に残っていることから、そう考えることができる。

さて『「月将」と「月建」の意味が掴めなくて、私キーっとなって』しまう方は、紫微斗数の命宮が何故、月の十二支から時刻に従って逆に進むのか疑問に思われていたようだが、それは六壬神課における天地盤の作成方法を考えてみれば判ると思う。すでに『命宮算出』のエントリで書いたように、月将が同じなら上昇宮である命宮の十二支は時間と共に逆行して行くからだ。七政四餘でも命宮は六壬天地盤の卯地と同じものとなっているはずだ。

ということなので、私は紫微斗数が西洋占星術をベースに中国オリジナルの占術として開発されたことをもって、十二支も西洋由来とする説には全く賛成できない。月建の十二支は月将の十二支が中国に到来する以前から中国に存在していたからだ。ついでに言えば、二十八宿とインドの二十七宿は異なっており、インドの二十七宿を適当に漢字一文字にしたものではない。それは宿曜経で解説されている宿の簡易算出法の付表が何故か牛宿を含む中国の二十八宿になっていることから判る。

なお先に出てきた十二支も西洋由来とする説を唱えた人は、別の所で古代の占術では『日干を本人とする』と言っていたけれども、五行大義以前では年干が本人だったなんて知らないんだろうな。

*1:この図は『働きアリ』様の『science 地球と宇宙(1)(地球の自転と天体の日周運動)』のエントリから拝借した。

*2:この辺りは『六壬天地盤と恒星時』のエントリを参照のこと。