四柱推命の大雑把な沿革

干支術を背景として個人の命運を占おうとする試みは色々な曲折を経て、徐子平(徐居易)によって「淵海子平」としてまとめられた。「淵海子平」では日干を本人として、四柱八字に透っていたり蔵されている十干と日干との相互作用に付けられたタグである通変から、個人の特性とその利害得失を推測しようとしている。中国では『子平』や『八字』とよばれているが、年月日時の干支を4つの柱としていることから生まれた『四柱推命』の呼称が日本では一般的に通用している。

なお「淵海子平」がまとめられた宋以後の面白い試みに、元の宰相であった耶律楚材の「天官経」がある。詳しくは判っていないが、「天官経」では実天体の陰陽五行と日干との相互作用である六親から個人の特性とその吉凶を占うものであったとされている。多分だが、この試みは「星平会海」へとつながって行くのだろう。

元の次の明の時代には、四柱推命にとって重要な「欄紅網」*1と「滴天髄」*2とが著されている。「欄紅網」では日干と季節の関係から算出される調候用神が解説されている。「滴天髄」では、十干十二支の解説を始めとして他の推命書への批判的な文言を含みながら、四柱推命の要点がコンパクトにまとめられている。またそれ以前の四柱推命の書籍が「三命通会」*3としてまとめられることになる。

清の時代には「子平新詮」*4のように新しい解釈の試みがなされている。そして現代でも数多くの研究がなされている。

さて明から清に時代が代るとき、四柱推命天文学からの強い影響を受けている*5。つまり二十四節気が、時間分割による恒気の二十四節気から、太陽黄経に基づく定気の二十四節気への転換であった。恒気法においては節月の時間的な長さが一定であったのに、定気法では季節によって節月の長さが変化することになる。

そのため十二支に蔵されている月律分野蔵干の出し方を新たに定めなければならなくなった。これによって発生した混乱は、清から遠く隔たった現代でも収束したとは言いがたく、午月に己が蔵されているのはその混乱の影響とみることができるだろう。この混乱から抜け出すために、月律分野蔵干から節気蔵干へと蔵干法を根本的に変えてしまおうとする試みすらある。

また四柱八字の解釈においても、上司からの覚えのめでたい正官は吉、その正官の七殺である傷官は凶といった、通変に固定した吉凶の観法から始まって、五行の強弱に基づいて通変の吉凶をケースバイケースに判断する観法、そしてそれに調候用神を加味して判断する観法など様々である。

面白いのが、さすがに文字の国である中国、現代でも様々な時代の様々な書籍に直接あたることができる。そのため四柱推命一つとっても様々なバリエーションがあることになる。それでも四柱八字と通変から個人の命運を推し測ろうする術が四柱推命であることには変わりがない。ということで、様々な四柱推命もそれが背景としている時系列にそって並べてみれば、四柱推命はやっぱり四柱推命なわけだ。

*1:後に清の時代に余春台によって「窮通宝鑑」として再度まとめられる。

*2:劉基著とされる。

*3:万民英撰。

*4:沈孝瞻著。

*5:四柱推命に限らず他の占術も影響を受けている。