オウム真理教が宗教法人として旗揚げしたのが1989年だから、私が就職して*1から3年くらいたっていたことになる。もし私が生まれるのがもう3年遅かったら、私も松本智津夫に絡め取られてオウム信者になっていた可能性は充分ある。
今はさほどでもないが昔は神秘体験というやつにはずいぶんそそられたものだ。神秘体験によって自分が劇的に変わることができるんじゃないだろうかという期待があった。
オウムでは科学省でレーザーとプラズマでもやっていただろう。そして刺殺された長官の村井にこんなことでもことでも言っていただろうか。
村井さん、少なくとも今の資金と技術じゃ自走するレーザー砲なんて作れっこないですよ。いいですか、たかが15kWのCO2レーザーを連続発振で稼動させるのに、どれだけの設備がいるか知ってますか。発振機は当然として、電源、冷却装置を含めると単に並べれば100ヘーベーの面積には収まりきらないです*2。しかも自走させようとしたら発電設備込みですよ。金額的にみても10億単位ですよ。そんな自走するレーザー兵器なんて正気の沙汰じゃないですよ。尊師に良く言っといて下さい。
で、松本の機嫌を損ねてポアされて、多分自分が改良したプラズマ焼却炉*3で灰になっていたことだろう。
繰り返すが、神秘体験をすることで自分が劇的に変わるんじゃないか、変われるんじゃないか思っていた頃に、もしオウム真理教と出会っていたら、多分、引っ掛かっていただろう*4。しかし実は神秘体験なんかじゃ人間変わることはできない。激烈な修行をしていた御釈迦さんがスジャータから禁忌を破って乳粥を供物として受けたとき*5、御釈迦さんがまず感じたのはそれだろう。神秘体験の中には自分が求める悟りはない、と。
仏教では神秘体験を求めて修行することを野狐禅といって蔑む*6が、開祖が神秘体験では悟りを開くことはできないと理解したことが根底にあるからだろう。神秘体験をランク付けし、そのランク付けを悟りのランク付けにすりかえるオウム真理教は野狐禅の最たるものだろう。
9月16日付記
一応、この日記を過去、オウム真理教で出家生活を送ったことのある人に見てもらったところ、神秘体験について以下のような指摘を受けた。
神秘体験は、あくまでも過程において生じる当たり前の現象であり、それぞれのステージへ到達した証明としては使われてましたが、神秘体験を目的としている人は高い悟りには至れない、と明言されてましたね。
内部から見た印象としては「神秘体験をランク付けし、そのランク付けを悟りのランク付けにすりかえ」ていたわけではないらしい。ただ「それぞれのステージへ到達した証明としては使われて」いたということであれば、外部からみて「すりかえていた」という印象をもたれても仕方がないと思う。