『論理』の貧弱さ

ゲーデル不完全性定理

内部に矛盾を抱える論理のシステムが欠陥品なのは間違いないところだ。
では内部に矛盾がない論理のシステムはどうかというと、やっぱり欠陥品だ。内部に矛盾のない論理のシステムは、それ自身では真偽を判定できない命題を抱え込む。これが名前だけは有名な『ゲーデル不完全性定理*1』というヤツだ。まあ『欠陥品』というのは言い過ぎかもしれない。それ自身では真偽を判定できない命題に出会ったら公理を追加すればよい。もっとも公理を追加した論理システムにも「真偽を判定できない命題」があるわけで公理を追加しないといけない。これを繰り返すなら世界を論理だけで記述するには最低でも可算無限個の公理を必要とするだろう。

つまり世界を過不足無く記述するには論理が持つ記述能力が貧弱過ぎるということになる。
仏教でいう悟りが不立文字、つまり御釈迦さんが得た悟りが言語化できなかったというのは論理が貧弱過ぎたことの現れなんだろう。

ただ公理系Aで構成される論理と公理系Bで構成される論理が矛盾していても、人間は「それはそれ、これはこれ」とパラレルに考えることができる。なので真偽不明の命題があった所で、その命題をを公理にしてしまって、命題が真である公理系と命題が偽である公理系を作って「それはそれ、これはこれ」と割り切ってしまうことも可能だろう。

ここまで割り切れば、禅の公案にすっきりした回答ができる場合もある。
有名な禅の公案集の『無門関』の第1則である狗子仏性はこういうものだ。

趙州和尚、因に僧問う、狗子に還って仏性有りや、也無しや。
州云く、無。

趙州和尚の回答である『無』は様々に考察されている。少なくとも単純に「狗子に仏性が無い」と答えたのではないようだ。
今の割り切った私ならこう答えるだろう。

狗子に仏性があるかどうかは定理ではなく公理である。
有るといえば有る世界ができ、無いといえば無い世界ができる。
考えても仕方がない。無だ。

人間の行動は完全な自由意志に基づくか、人間の行動は完全に宿命で決定されているか、宿命はあるけれどもファジーに決まっているだけで自由意志の介入も可能だ、とかも公理だろう。