太白陰経についてのちょっとした考証

以前、国立公文書館にいって江戸幕府紅葉山文庫に所蔵*1されていた太白陰経を見た結果、あまりスジがよくなさそうだと思ったという話をしたが(id:hokuto-hei:20040602)、物事には両面がある。登明と徴明の両方の表記があるということは、太白陰経には宋以降に徴明が登明に書き換えられたものと、徴明のまま伝えられたものの両方があることになる。

徴明が登明に書き換えられたのは宋の仁宗*2以降なので、太白陰経にはその前の記憶が伝えられているというのは確実とみていいだろう。なお私は東夷の野蛮人なので中華皇帝の諱なんてカンケーない。それで通常は徴明を使うことにしている。

それと太白陰経遁甲巻では時刻をしめす場合に「子刻」といった表記は採用していない。必ず「甲己日の夜半であるなら干支は甲子」という表記になっている。つまり時刻への十二支の対応付けが確立していなかったと推測できる。占事略决では既に十二支で時刻をしめすようになっているので、太白陰経は唐の時代の記憶を伝えているとみてよさそうだ。

*1:内閣文庫を経由して今は国立公文書館所蔵

*2:平妖伝の時代だ。