紫微斗数の命盤の数

命盤の算出過程からの推論

紫微斗数の命盤の数を、命盤の算出方法から見積もってみた。こんな感じ。

項目場合の数注記
生時12 通り生時系の星の配置を含む
生月12 通り生月系の星の配置を含む
小計144 通り十二宮と身宮の配置を含む
紫微在支12 通り
生年支12 通り年系の星の配置を含む
生年干10 通り宮干の遁干を含む
性別2 通り
414,720 通り
四柱推命で男女の別を入れると、

2 × 720 × 720 = 1,036,800通り

はある。紫微斗数の命盤の数って案外少ないと思った。

以前、術友の椎羅さんから「存在可能な紫微斗数の命盤を全て作ってみたら面白いかも」ということで、何時か作りましょうといってそのままなので、作ってみるかな、と言うだけ言ってみる。

しかしさぁ、安倍一輝さん、

次に身宮の配置=11種

は絶対ないと思うよ。身宮の配置って十二支で12通り、十二宮で6通りじゃないですかね。

日蝕って新月の日に起こるんだよ。へぇ~すごぉ~い、みたいな。

これを『深奥』と言いますか

dis話なので、そういうのが御嫌いな方は、このページを離れて下さい。検索サイトはいかがですか?“Google

まぁ敵認定させてもらってる安倍一輝さんなんだけど、『命盤の深奥』というエントリをあげていた。紫微斗数の命盤が60年経つと同じものが現れることに紫微斗数の命盤の深奥さを感じたのだそうだ。

紫微斗数の基盤となっている太陰太陽暦についていうと、19太陽年が235朔望月とほぼ等しいというメトン周期があるわけで、私なんかは反射的に「そう都合よく行くものか」と考えてしまう。で、件のエントリを読んで行くと、そういう話は一切無視して、同じ太陰太陽暦の日付で作盤していた。そんな縛りで良いのなら、あったり前じゃん。

化曜星を含む十干系の星は当然のように10年の周期だし、宮干は五虎遁で決まるので5年周期、小限は生年支で決まるので12年周期、最小公倍数は60だよね。この条件下で同じ太陰太陽暦の日付と生時を持ってきたら同じ命盤がでないわけがない。

四柱推命だって60年後には大抵半分くらいの人は四柱全て同じの干支の命式が出てくる。例えば1957年03月22日と同じ年干支、月干支、日干支の日は60年後の2017年03月07日に巡ってくる。時支が同じなら時干は五鼠遁で決まるから時干も同じになるよね。

まるで、

日蝕って新月の日に起こるんだよ。
へぇ~すごぉ~い。

みたいな印象を受けたのは、私の僻目ですかねぇ。

聖徳太子は祟ったか?

怨霊

古くは『祟る』のは神の行為であって人が祟ることは無かったとされる。祟り-Wikipediaによると、

日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り(タツとアリの複合形)」が転訛したものという折口信夫の主張が定説となっている。

とのことだ。人間で最初に祟ったとされたのは早良皇太子*1で、神祇官からそういう報告が上がったとのことだ。神祇官なので亀卜で占ったのだろう。そしてこの後、様々な人間が祟ったとされる。有名所としては、菅原道真崇徳上皇、辺りだろうか。しかし早良皇太子が祟ってから、憑祈祷*2を使って怨霊が自らの恨みを伝えることができるようになるまでには実に200年くらいの時間を必要としている*3

このプロセスを考えると、早良皇太子以前に人間で祟った例は無かったのではないだろうか。つまり早良皇太子よりもかなり昔の人であった聖徳太子梅原猛井沢元彦がいうような怨霊ではなかっただろうということだ。これについて傍証をあげてみよう。拙著『安倍晴明「占事略决」詳解』でも書いたけれども、占事略决の27章以降は個々のテーマ毎の占い方を解説したものとなっている。27章で病気の原因となっている祟りについて占う方法が解説されている。最初に祟っているのが神なのか死霊*4なのかの判別について解説されている。後半は、祟る神を天盤十二神から、死霊を天将からどういった存在なのかの判別についての記述となっている。死霊である『鬼』が絡む部分についてあげてみるとこんな感じだ*5。句読点と『騰蛇』は筆者による変更となっている。

騰蛇主竈神、客死鬼。(客死鬼、底本作害死鬼。)朱雀主竈神及詛咒、惡鬼。六合主束縛死鬼、求食鬼。(縛死鬼、底本作傳死鬼。)勾陳主土公、廢竈神、青龍主社神及風病、宿食物誤。天后主母鬼及水上神。大陰主廁鬼。玄武主溺死鬼、乳死鬼。大裳主丈人。(丈人底本作文人、或書曰。丈人父母也、靈氣也。)白虎主兵死鬼、道路鬼。天空主無後鬼。餘以余神將所主決之。

死霊となった死因は飢え死にとか溺死とかあげられているけれども、どう読んでも恨みをのんで処刑されたとか死んでしまって怨霊となった死霊*6は出てこない。これは晴明の時代、つまり藤原道長の時代には怨霊概念がまだ固定化されてなかった可能性をしめしている。ということで、聖徳太子怨霊説が成立しない可能性は高い。つまり怨霊史観は成立しそうもないということだ*7

みたいなことを、呉座勇一先生が書かれた『「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る』を読んで思ったわけだ。この記事では、井沢元彦からの反論に呉座先生が逐一反論して殲滅してしまっている。

追記(2019-06-14)

上記が幾つかブックマークされてコメントを頂戴した。id:machida77さんからのコメントは実にありがたかった。

怨霊史観に関連する話題/関連する情報として、神祇史料集成に「祟」に関する概説と史料抜粋あり
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/tatari.html

リンク先に飛ぶと昌泰3(900)年までの祟りの記録75件がまとめられている。これについて、祟の概説のページで以下のようにまとめられている。

奈良時代までにおける祟りの記事の傾向として、

  • 祟りを引き起こす主体の多くが神
  • 人霊は祟りの主体としては『日本書紀』や『続日本紀』では明確には示されていない。

日本後紀』以降の平安時代にみられる祟りにおいては、

  • 祟り関連の記事件数自体が増加
  • 明確に神による祟りと思われる記事が約20件
  • 天皇陵の皇祖霊や人霊によると考えられる祟りの記事も約20件

ということで、死霊が祟ると認識されるようになったのは平安以降ということが判る。

*1:後に崇道天皇の名を贈られた。

*2:“よりぎとう”と読む。依り代に様々な霊を下ろして、依り代の口を使って霊に語らせる巫術。修験でよく使われたそうだ。

*3:斎宮歴史博物館』のエントリを参照のこと。

*4:略决では中国風に『鬼』と記されている。

*5:原文は台湾の浦木裕さんのサイトである『久遠の絆』から拝借した。ここには様々な日本の古典が電子化されて置かれている。

*6:特に怨霊史観が言う非業の死をとげた政治的敗者。

*7:昔はずいぶんとかぶれたものだけど。

大逆事件

幸徳事件

1947年まで『大逆罪』という罪が刑法で規定されていて、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする行為に適用された。大逆事件-Wikipediaによると、この罪に当たるとされた事件は4つある。しかし一般的には、幸徳秋水らが大逆罪で検挙・処刑された『幸徳事件』が大逆事件とよばれている。この事件は、宮下太吉の明治天皇爆殺*1計画を奇貨とした明治政府が社会主義者共産主義者の一掃を目論んで、幸徳秋水を始めとする26名を逮捕、12名が一審で有罪*2となって処刑された。他にも恩赦で死刑から無期懲役減刑されたものの獄死した者が5名となっている。

この事件の背景には、明治政府が抱いていた世界的に社会主義共産主義の運動の高まりによる危機感があったとされる。要するに明治政府は一般大衆を信用していなかったということだ。そして明治政府の後継者である現日本国政府というか最高裁判所大逆事件の再審請求に対して「大逆罪自体が無くなったんだから、もうええやん」みたいな対応を続けている。実際に明治天皇暗殺を計画し実行しようとしたのは5名だけで、他は当局によるでっち上げだったのがハッキリしているにも関わらず、だ。

この政府が、民衆を信頼できず自由の暴発を恐れて国家権力で無理やり叩き潰すということが、今から30年前に中国でも行われた。規模は圧倒的に向こうの方が上だが。隣の国の不幸な事件に哀悼の意を持つついでに、小規模とはいえ自国の似たような事件である大逆事件について考えてみてはどうだろう。

*1:爆弾の製造と爆破の実験は成功していた。

*2:大逆罪の裁判は非公開で行われる、大審院の審理による一審制。

金剛邪禅法

妖術

北宋、仁宗の時代に貝州*1で王則が反乱を起こし、宣撫使の文彦博が指揮する官軍によって鎮圧される。この時、王則の側に複数の妖術使いがいたとされていて、王則の反乱とその鎮圧に題材を取った講談は『平妖伝』と呼ばれている*2

平妖伝*3』では、妖術のオリジンは天界の書庫にあった『如意冊*4』とされている。中国の文字とは異なる文字で書かれていたようだ。この如意冊は天界の書庫の管理者であった白猿神が師であった九天玄女娘娘*5との縁で封印を破ることに成功してしまい、自身の洞である白雲洞の壁に内容を彫り付けてしまう。それが切っ掛けとなって如意冊の法が人界に漏れてしまうことになる。

壁の文字その他を写し取ったのが蛋子和尚なのだが、知らない文字で書かれているので和尚は読むことができない。しかし老狐である聖姑姑はそれを読むことができ、蛋子和尚と聖姑姑のタッグが七十二の地煞小変法の妖術を完成させることになる。蛋子和尚による写し取りは、それが盗みであったために、邪法である妖術の地煞小変法を写し取ることはできたのだが、正法である三十六の天罡大変法を写し取ることには失敗している。このことが王則の反乱を鎮圧する際に大きな影響をもたらす。天罡大変法には五雷天心正法の別名がある。そうこれが『うしおととら』に出てくる青い目の鏢が使う『十五雷正法』の元ネタだ。

話はそれるけれども、蛋子和尚は名前の通りガチョウの卵から生まれた*6。中国では鳥の卵は蛋子とか蛋とよばれることが一般的で、蛋白質の蛋白は鳥の卵の白身を指している。なんでも単に『卵』と書くとキ〇玉を指すと聞いたこともある。

閑話休題、妖術にも『金剛邪禅法』という中二心をくすぐる別名がある。この名前は芥川龍之介の『邪宗門*7』にも出てくる。別名はかっこいいけど所詮は邪法の妖術なので正法には勝てない。邪宗門でもこの正法には勝てないという特性を使って、怪しげな摩利信乃法師が実は正法に仕えるものであることがしめされている。平妖伝では王則は反乱を起こした時にはそれなりの義の人であったのに、たちまち堕落してしまって配下の妖術使いに離反されてしまう。特に蛋子和尚は白猿神から諭されて天罡大変法の伝授を受けて貝州の鎮圧を手助けすることになる。

とまあ、平妖伝面白いです。読んで損はないです。中国古典文学大系に入ってたりもします。中国古典文学大系の平妖伝こちら

そういえば、どこかの流派には九天玄女娘娘から授けられた天書を保有しているという伝承があるそうだけど、案外、平妖伝が元ネタなんじゃないの。

*1:清河・武城・歴亭の3県を管轄する州。現在の河北省と山東省の省境に位置した。

*2:より正確には、鎮圧に功があった人間に名前に『遂』が入った人物が3人登場することから『三遂平妖伝』という表題になっている。

*3:明末に馮夢竜によって編纂された40回本『三遂北宋平妖伝』。

*4:もしくは如意宝冊。

*5:私は平妖伝九天玄女娘娘の御名と初めて出会った。

*6:ヘソが無いだろうことは石卵から生まれた孫悟空と同じ。

*7:未完。

月律分野蔵干とdecan

月律分野蔵干

午月の中気が己であることを確認して、自分の長年の間違いを正すことができたわけだ。四柱推命で使用される月律分野は孟仲季で長さに変化があるのだが、余気、中気、正気の3つから構成されている。余気の蔵干は前月の五行を引き継いでおり、正気の蔵干は十二支本来の五行となっている。そして中気の蔵干は午月を除いて三合会局の五行となっている。そのため仲支の子、卯、酉は中気と正気が同じ蔵干になっている。

西洋占星術では30°の広がりを持つsignを10°づつに分けてdecanとし、そのdecan毎にrulerを置いている。現代の占星術ではdecan rulerはTriplicityを構成するsignそれぞれのrulerから構成されている。

占星術のTriplicityが十二支の三合会局に相当しているので、私は以前、中気が三合会局の五行に従うことをもって、月律分野蔵干の起源がdecanから来ていることの証拠としていた。似たようなことを考える人はいるもので、波木星龍さんも自身の公式サイトで、『謎だった「蔵干」・「六合」と呼ばれているものの正体』や『推命学研究の異説について ―その2・蔵干―』といった論を展開されている。

もっとも私は現在は、月律分野蔵干の起源がdecan rulerであることを疑ってはいないけれども、中気が三合会局に従うことをもってその証拠とはできないと考えている。

何故なら古代の占星術ではdecan rulerは、白羊宮の1st. decanのrulerを火星とし、後はカルデアン・オーダーに従って順繰りにdecan rulerを割り振っているからだ*1Deborah Houldingさんのサイトの“THE EGYPTIAN CALENDAR AND THE ZODIAC”には、エジプト占星術でのdecan rulerの図があげられている。

ということで、今は以前よりも大胆なことを考えている。つまり、

  • Triplicityによるdecan rulerの配置は、インド辺りに起源があり、それが東西に伝わった。
  • 中国の月律分野蔵干がインド辺りを経由して西洋に伝わって、decan rulerの再配置につながった。

のどちらかなんじゃないだろうか。

[追記]どうやらインド起源らしい

Triplicityによるdecan rulerはインド起源だと、水埜明善さんが教えてくれた。

*1:キリスト教占星術』でもfaceとして、このタイプのdecan rulerが出てくる。

術数と科学

かっては混沌としていた

中国では『術数』の名のもとに様々なものが統合され、相互に作用しあっていた。例えば、天文と地理、暦法、算術、蓍龜*1、五行、音楽といったものだ。『数と易の中国思想史』ではこれについて様々な例をあげながら丁寧な解説がなされている。兵書に兵陰陽の項目があることから、兵書もまた術数と関わりを持っている。孫武の『孫子』は現代では兵陰陽の項目がないけれども、本書によると曹操が兵陰陽の項目を除外した孫子が現代まで伝わっているためで、孫子のオリジンには兵陰陽の項目があったそうだ。

算術と術数との関わりといえば、すぐ浮かんでくるのが易の算木だ。算木は本来はれっきとした計算道具でかなり複雑な計算をこなすことができる。こういった算術と術数の関わりは現代にもある程度継承されていて、まじない師のきりん堂さんによるとソロバンを魔除けに使う方法があるとのことだった。

こういった術数の名のもとでの混沌は西洋でも同様で、ピタゴラス教団でも数学、占星術、音楽などが一体化していた。西洋でも天文は、後に狭義の天文学として分離して行く部分と占星術の部分が未分化な時代が長かった。西洋でやっと狭義の天文学が分離し始めたのはケプラーの時代になってからと言って良いだろう。ケプラー占星術で生計を立てていた占星術師だった。もっとも占星術に対して非常に辛辣な言葉*2を残している。それでもアスペクトをサインの縛りから解放するといった貢献をしているわけで、占星術に対して愛が無かったわけでもないだろう。

なんでこういったことを思い出したかというと、鏡リュウジさんが番宣を兼ねた一連のtweetをしていたからだ。

私にとっては『科学リテラシー占星術や占いの実践の両立』は困難な話ではない。占星術は“fortunetelling art”の一つなので、科学とは異なるものなのは自明なのだ*3。この辺りに関連する水埜明善さんのtweetが興味深いので引用しておく。

なお、鏡さんが番宣していた番組というのは、5月30日にNHK BSで放送予定のコズミックフロント☆NEXTの『占星術に魅せられて~星座をめぐる物語~』だ。とりあえず見てみようかと思ってる。

*1:易と亀卜

*2:占星術という愚かな娘が娼婦仕事をして賢い天文学という母親を養っている、みたいな。

*3:術友の椎羅さんの『占いとは何か』を参照。