聖徳太子は祟ったか?

怨霊

古くは『祟る』のは神の行為であって人が祟ることは無かったとされる。祟り-Wikipediaによると、

日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り(タツとアリの複合形)」が転訛したものという折口信夫の主張が定説となっている。

とのことだ。人間で最初に祟ったとされたのは早良皇太子*1で、神祇官からそういう報告が上がったとのことだ。神祇官なので亀卜で占ったのだろう。そしてこの後、様々な人間が祟ったとされる。有名所としては、菅原道真崇徳上皇、辺りだろうか。しかし早良皇太子が祟ってから、憑祈祷*2を使って怨霊が自らの恨みを伝えることができるようになるまでには実に200年くらいの時間を必要としている*3

このプロセスを考えると、早良皇太子以前に人間で祟った例は無かったのではないだろうか。つまり早良皇太子よりもかなり昔の人であった聖徳太子梅原猛井沢元彦がいうような怨霊ではなかっただろうということだ。これについて傍証をあげてみよう。拙著『安倍晴明「占事略决」詳解』でも書いたけれども、占事略决の27章以降は個々のテーマ毎の占い方を解説したものとなっている。27章で病気の原因となっている祟りについて占う方法が解説されている。最初に祟っているのが神なのか死霊*4なのかの判別について解説されている。後半は、祟る神を天盤十二神から、死霊を天将からどういった存在なのかの判別についての記述となっている。死霊である『鬼』が絡む部分についてあげてみるとこんな感じだ*5。句読点と『騰蛇』は筆者による変更となっている。

騰蛇主竈神、客死鬼。(客死鬼、底本作害死鬼。)朱雀主竈神及詛咒、惡鬼。六合主束縛死鬼、求食鬼。(縛死鬼、底本作傳死鬼。)勾陳主土公、廢竈神、青龍主社神及風病、宿食物誤。天后主母鬼及水上神。大陰主廁鬼。玄武主溺死鬼、乳死鬼。大裳主丈人。(丈人底本作文人、或書曰。丈人父母也、靈氣也。)白虎主兵死鬼、道路鬼。天空主無後鬼。餘以余神將所主決之。

死霊となった死因は飢え死にとか溺死とかあげられているけれども、どう読んでも恨みをのんで処刑されたとか死んでしまって怨霊となった死霊*6は出てこない。これは晴明の時代、つまり藤原道長の時代には怨霊概念がまだ固定化されてなかった可能性をしめしている。ということで、聖徳太子怨霊説が成立しない可能性は高い。つまり怨霊史観は成立しそうもないということだ*7

みたいなことを、呉座勇一先生が書かれた『「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る』を読んで思ったわけだ。この記事では、井沢元彦からの反論に呉座先生が逐一反論して殲滅してしまっている。

追記(2019-06-14)

上記が幾つかブックマークされてコメントを頂戴した。id:machida77さんからのコメントは実にありがたかった。

怨霊史観に関連する話題/関連する情報として、神祇史料集成に「祟」に関する概説と史料抜粋あり
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/tatari.html

リンク先に飛ぶと昌泰3(900)年までの祟りの記録75件がまとめられている。これについて、祟の概説のページで以下のようにまとめられている。

奈良時代までにおける祟りの記事の傾向として、

  • 祟りを引き起こす主体の多くが神
  • 人霊は祟りの主体としては『日本書紀』や『続日本紀』では明確には示されていない。

日本後紀』以降の平安時代にみられる祟りにおいては、

  • 祟り関連の記事件数自体が増加
  • 明確に神による祟りと思われる記事が約20件
  • 天皇陵の皇祖霊や人霊によると考えられる祟りの記事も約20件

ということで、死霊が祟ると認識されるようになったのは平安以降ということが判る。

*1:後に崇道天皇の名を贈られた。

*2:“よりぎとう”と読む。依り代に様々な霊を下ろして、依り代の口を使って霊に語らせる巫術。修験でよく使われたそうだ。

*3:斎宮歴史博物館』のエントリを参照のこと。

*4:略决では中国風に『鬼』と記されている。

*5:原文は台湾の浦木裕さんのサイトである『久遠の絆』から拝借した。ここには様々な日本の古典が電子化されて置かれている。

*6:特に怨霊史観が言う非業の死をとげた政治的敗者。

*7:昔はずいぶんとかぶれたものだけど。