ヘボがオノレの占いを振り返る

外しました

なんとなく占った』のエントリで、世間一般の立春の日の天候を占って、以下の課式を得た。

立春の日の天候占

で、こう書いた。

発用は小吉(未)で天后が乗じている。天后は雨の象だ。もっとも発用が日墓ながらも小吉なので案外暖かい可能性がある。ということで立春の日は少し暖かい雨が降ると予想しておく。

見事に外した。発用未の土行は旺じていて天后の水行を剋している。これを考えずに単に天后なので雨といってしまったわけだ。世の中には「そうは言っても、かなり雨が降った所もあるから。」と慰めてくれる人がいるかもしれないけど、

なお干上神が空亡していて乗じた勾陳から剋されているけれども、神后(子)は雨の象で父母ということは、私は外出して少し濡れるということなのだろう。

とまで書いておいて、今日確かに外出したけれども、何も濡れることは無かった。これも一課の神后(子)が空亡している所に勾陳という土行の天将が乗じていたためだろう。ヘボな占いをしてしまった。

まあ世間の立春の日の天候が、いつもと違って暖かいのでは?と疑問を持つ感性があっただけでも良しとしようか。例の「立春なのに、この寒さ」という定型文を見聞きせずに済んだしね。

平妖伝の思い出

三遂平妖伝

沈括の『夢渓筆談』を読んでいると馴染みのある元号や人物がよく出てくる。馴染みのある元号というのは『景佑』で、この時代には三式について欽定のテキストが出版されている。つまり『景佑六壬神定経』、『景佑遁甲符応経』と『景佑太乙福応経』だ。残念ながらこれらは完全な形では残っていない。しかし欽定の三式のテキストを刊行した北宋の仁宗は、よっぽど式占が好きだったのだろうと思う。

人物でいうと私の記憶を刺激するのが文彦博(ぶん-げんはく)と包拯(ほう-じょう)だ。この二人は、仁宗の時代にあった貝州での王則の反乱と鎮圧を基に作られた『三遂平妖伝』に鎮圧側として登場してくる。実際にも文彦博は宣撫使として貝州鎮圧の戦いを指揮している。『三遂平妖伝』おいて包拯は包龍図(ほう-りゅうと)と呼ばれており、枢密使として文彦博を鎮圧軍の総指揮官に推薦している。

『三遂平妖伝』には羅貫中が編纂した20回本の『三遂平妖伝』と馮夢竜による40回本『三遂北宋平妖伝』等がある。馮夢竜の『三遂北宋平妖伝』は、太田辰夫訳で平凡社から出ている『中国古典文学大系』の36に入っている。タイトルは『平妖伝』だ。この『平妖伝』は私が初めて五行の相生相剋に触れた作品で思い出が深い。タイトルに『妖』の字が入っているのは、『平妖伝』では反乱を起こした王則側に多数の妖術使いが参加していたことになっているからだ。それとこの本で『妖術』に『金剛邪禅法』という中二心をくすぐる別名があるのを知った。

包拯は清廉潔白な人物として有名で、その業績は死後伝説化している。北宋の首都開封の知事であった時代に数々の名裁判を行ったとして『包青天*1』のタイトルでTVドラマが作られた。なんか大岡越前みたいな感じだけど、どっちかと言うと『大岡政談』の方が包拯の『包公故事』の影響を受けているらしい。

*1:“Justice Pao”や“Judge Bao”のタイトルの英語版もある。

独特な返吟課

陰陽道の三伝

小坂眞二先生は、陰陽道で使用されていた六壬の三伝の復元という困難な作業をなし遂げられた*1のだが、現代の六壬の三伝と小坂先生が復元された陰陽道の三伝で一番変化が大きいのが『返吟課』だ。現代の六壬では賊剋がある場合は、中伝は初伝から照上で出し、末伝も中伝から照上で出す。結果的に賊剋のある返吟課である無依課は、中伝は初伝の冲、末伝は中伝の冲となって末伝は初伝と同じになる。初伝と末伝が同じになるので、返吟無依課は『元の木阿弥』の意味が付与されることになる。

ところが唐の時代には、返吟課と伏吟課を同等に扱うべきという考え方があった。伏吟課と同等というのは、基本的には三伝が同じにならないように三伝を取るということだ*2。中国唐の時代に編纂された李筌の『太白陰経』巻九にある『玄女式』では返吟課の三伝は以下のように取るとされている。

反吟、剛干、以干上神為用、柔干、以支上神為用。
反吟、剛干、以干衝、柔日、以辰衝為用。
以刑及衝用為傳終。(句読点は引用者がふり直した)

太白陰経では、陽の日は干上神を、陰の日は支上神を初伝発用として、中伝、末伝は刑で回して行くという中末については伏吟課と同じ中末の取り方を採用している。

で、陰陽道の三伝での返吟課について生徒さんから質問をもらったので遅まきながら調べてみた。陰陽道の三伝で標準的な返吟課の三伝の取り方は、中伝は初伝の冲、末伝は中伝から順に数えて4つ目ということになる。つまり中伝が亥なら末伝は寅、中伝が子なら末伝は卯、中伝が申なら末伝は亥といった感じだ。これは無依課の多くの場合に適用されている。

例外となるのが賊剋のない無親課と、賊剋があるものの初伝が土の支となる場合の言ってみれば准無親課の場合だ。まず准無親課となるのが、乙丑、乙未、癸丑、癸未の4日の場合だ。三伝はこうなる。

日干支
乙丑
乙未
癸丑
癸未

発用初伝は賊剋ある第一課となっていて、中伝は照上で初伝の冲となっている。しかし末伝は中伝が丑なら末伝は辰、中伝が辰なら末伝は丑となっていて、この准無親課の場合だけ末伝は中伝の4つ目とは異なっている。

無親課の場合はもっと例外的となっている。無親課となるのは、丁丑、丁未、己丑、己未、辛丑、辛未の6日の場合だ。こうなっている。

日干支
丁丑
己丑
辛丑
丁未
己未
辛未

初伝は現代の無親課と同じく日支の駅馬を取っているものの、中伝、末伝の取り方が判らない程に独特だ。日干寄宮と日支が同じの五重日の丁未と己未の場合は、五重日の独特な三伝の取り方である八専課と同じく中伝、末伝とも第一課となっているのは辛うじて判るけれども、他の場合は四課のどこにもない寅や申が出てくる。初伝の4つ目を中伝として、末伝は中伝の冲という感じだろうか。この例外の独特さが陰陽道の三伝法が廃れた理由の1つではないだろうか?

クライアントと向かい合う時

畏友、大石真行さんは「占い師はクライアントにとっての一番親切な他人であれ。」と常々言っている。『他人』であること、つまりクライアント*3と一体化してはいけないということだ。クライアントの為を思うとしても、他人としての冷静な分析がないと占った結果を間違って読み取ってしまう、そういうことだと私は理解している。

もう一人の畏友である玄珠さんは最近のmixi日記の『占い者・芝居者*4のエントリで、「占法家とは易神でもアポロンでも何でもよいけど未来を告げる超越者に対して問占者-つまり依頼主を演じる芝居者である。」としている。玄珠さんもまた『離見の見』としてクライアントと心的距離を詰めすぎることを戒めている。

どちらにしても占い師は、可能な限りクライアントの現状を正しく知る必要があるということだ。そしてその上で心を正しくして問えば、正しい答えを出してくれるというわけだ。読み取り難い場合もあるけど、ね……

こういうことを考えていると、クライアントと占い師が対等かどうかなんて非常に瑣末な問題に思う。高橋桐矢さんが『占い師とお客様は対等じゃないと思う理由』というエントリをアメブロにあげていたけれども、そんなことに悩むよりも考えるべきことがあるのではないだろうか。

*1:以下の文献で公開されている。
小坂眞二「陰陽道六壬式占について(上)」、古代文化38巻313-323頁(1985)
小坂眞二「陰陽道六壬式占について(中)」、古代文化38巻362-373頁(1985)
小坂眞二「陰陽道六壬式占について(下)」、古代文化38巻415-426頁(1985)

*2:後述するように例外はある。

*3:お客、依頼人、まぁ何だって同じことだ。

*4:このエントリは友人までの限定なので読みたい方はmixiで玄珠さんと友達になって下さい。

告知2点

明日と明後日

明日26日(土曜)は西友光が丘店、明後日27日(日曜)は西友上福岡店、それぞれの魔女☆Maizon占いブースに出演します。
宜しく御願いします。

動画をYouTubeにアップ


奇門遁甲の不思議な話

内容的には、以前のエントリ『閲微草堂筆記』の奇門遁甲の部分を、結月ゆかりさんに適当に読み上げてもらったものだ。

しかし『術奇門』とか『術遁甲』あるいは『法奇門』や『法遁甲』の『術』ってこういうものだよね。奇門遁甲の基本的な使い方である入門とか出門の遁法を『符呪奇門遁甲』て何か変じゃないかな?

30秒は意外と長い

皇極経世の時間体系

皇極経世書では長大な時間から短い時間まで、システマティックに干支が割り付けられている。こんな感じだ。

  始まりの干支   時間
甲子 元 12会 129,600年
丙寅 会 30運 10,800年
甲子 運 12世 360年
甲子 世 30年 30年
甲子 年 12月 12月
丙寅 月 30日 30日
甲子 日 12 24 hour
甲子  30 2 hour
甲子  12 4 min
丙寅  20 sec

12と30が綺麗に交互に並んでいる*1。1世が30年なのは多分だけど、土星の公転周期がおよそ30年から来ているのだろう。

会が丙寅会から、月が丙寅月から始まるなら、順番からいっても丙寅から始まることになる。つまり年が寅月から始まるようにも寅から始まることになる。子、丑秒は前のというわけだ。が20 secだから子の後半の10 secと丑の20 secを合わせた30 secの間はが進まないことになるし、も進まないということになる。

現代の感覚では30 secって割と長いよね。

『夢渓筆談』が来た

『夢渓筆談』が届いたので読み進めている。月将についての沈括の考えは文庫の1巻の象数(一)にあった。内容的には予想とちょっと違っていた。沈括の解説をまとめると、

  • 合月つまり月建と支合する十二支をもって月将とする。
  • 太陽過宮(言ってみればサン・サイン)を月将とする。

今の時代(北宋の時代)では、上の二つは異なっているように捉えられているが、元をたどれば上の二つは同じことを言っている。歳差運動のせいでずれただけだ。六壬やるなら原義にもどって太陽過宮を使いなさい。

こんな感じだ。しかし夢渓筆談の象数の辺りの暦法の話を読んでいると、沈括の「お前、判ってるよな」という声が聞こえてくるような気がする。沈括とか蘇軾とか発達障害を抱えていたのではないだろうか。まあ人間関係は別にして、北宋の神宗の時代って王安石司馬光、柳宗元、蘇軾、沈括とか錚々たる面々がそろっているのに、これらの有能な人達が本来のパワーを発揮できないまま政治が混乱して行く感じだ。まさしく老子が言う、

国家混乱、有忠臣。

を地で行ってる感じがする。

*1:現実はこんなに綺麗じゃなくて1月は日数にして端数が出る。端数を出さないようにするにはインドのティティみたいなものが必要になる。

十二支と黄道十二宮の相互乗り換え

月将系と月建系

十二支には月将系と月建系の2系統あるというのは常々言っていることだけど、中国占術では月建系の十二支の方が使われていることが多い。月将系、つまり黄道十二宮を使う占術というと、六壬神課と七政四餘とその直系くらいじゃないだろうか。紫微斗数は長い時間をかけて黄道十二宮の月将系の十二支から月建系の十二支に移行することに成功している。四柱推命は端から月建系の十二支で構築されている。

六壬とかやっていると月建系から月将系への変換をやることが多いけれども、その逆もまた成立する。月将系と月建系は十二支の支合の関係を使って相互変換できるからだ。表にするとこんな感じだ。

月建系
月将系
黄道十二宮

例えば私のネイタルの土星は♐14°18′にある。♐(寅)の支合を取ると亥になる。つまり私のネイタルの土星は月建系の十二支では亥にいることになる。60年前の2月の中頃、つまり己亥年になって割とすぐに腸重積で死にかけたし、四柱推命の己亥の大運もキツかった。土星のいる月建系の十二支は案外、凶の十二支の目安になるかもしれない。