中国清の時代の遁甲と六壬の伝承
平凡社が出した中国古典文学大系の42巻は、聊斎志異と同じような怪異譚を複数収録したものになっている。収録されたものの1つに「閲微草堂筆記」があり、著者の紀昀*1が体験者から直接に聞いた面白い怪異譚が脚色無しで集められている。その中に六壬と遁甲の話が出てくる。
113話が奇門遁甲の話で、真伝は書物にはなっていないという話から始まっている。徳州の宋清遠がその友人を訪ねたところ、その友人は宋清遠を一泊させて「月夜の晩だし芝居でも見ようよ」といって、庭に長い腰掛けを縦横に並べた。そして座敷から庭を眺めながら酒を酌み交わしていると、真夜中頃になって1人の男が垣根を越えて庭に侵入してきた。男は庭先をぐるぐる回りながら腰掛けに出会うたびに、腰掛けをよっこらしょという感じで越えるということを繰り返し始めた。そしてそれを100回とか200回とか繰り返した後に、今度は逆向きなってまた同じように腰掛けを越えることを繰り返し始めた。
結局、侵入してきた男は明け方まで腰掛けを乗り越えることを続けて、疲労困憊して倒れたそうだ。男は泥棒だったのだが、男には腰掛けが低い垣根に見えていたそうで、越えても越えても垣根の連続で、遂にはくたびれ果てて自棄になったということだった。宋清遠の友人は奇門遁甲の真伝の持ち主で、宋清遠の人柄を見込んで奇門遁甲の効果を見せつけた後で、宋清遠に「君のように真面目な人になら教えても良いよ」といったのだが、宋清遠は断ってしまう。件の友人が「学びたいと思う人には伝えられず、伝えてよい人は学びたいと思わない。この術も結局は絶えるだろうな」と嘆息して話が終わっている。
さすがの黒門さんもこれはマネできないだろうと思うけど、黒門さんだからね*2。
六壬の話は175話で、紀昀の友人である許文木の父の知り合いだった李鷺汀という古道具屋が六壬の達者だったという話。李鷺汀は朝起きるたびにその日の出来事を占っていたという。六壬で占うのはそれだけで、他人を占うことはなかったという。なんか天機を洩らし過ぎるとマズイということでそうしていたのだそうな。李鷺汀の腕前は、今邵康節*3といわれる程だったらしい。もっとも李鷺汀自身は、邵康節には遠く及ばないと感じていたようで、許文木の父にこんな失敗談を語ったらしい。
「占うと、その日、仙人が自分のところを訪ねてくると出ました。そしてその仙人は竹の杖をついてやってきて、酒を飲んで詩を書いて行くと。そこで香を焚いて待っていたら、知人が竹に彫った呂純陽*4の像を売りにきたんですよ。なんとその像のわきには酒を入れた瓢箪があって、その瓢箪には呂純陽の有名な詩が刻んでありました。邵康節ならこんな外し方はしないですよ。」
私もこういう境地を目指したいけど、道は果てしなく遠い。この話は康煕の末頃の話ということで西暦1720年頃のことらしい。