安倍晴明という御仁

不明な前半生と遅咲き

8月20日福山リビング新聞社の「リビングカルチャー倶楽部」で行われた『安倍晴明〝希代の陰陽師〟の経歴』を受講してきた。講師は陰陽道研究家の木下琢啓先生で色々新発見もあった。

天徳四年(690)に内裏で起こった大火災の結果、国家の重宝が多数焼失・焼損する。中でも重要だった二振りの剣を翌年の応和元年に再鋳造することになる。その祭式は陰陽寮が行い、賀茂保憲が中心的な役割を担った。その補佐を行ったのが安倍晴明で、当時は天文得業生*1で41歳だったと伝えられている。これが安倍晴明、初めて公式記録への登場になる。

なので安倍晴明の前半生については全く不明のままだ。ただ最近、それ以前は大舎人だったのではないか?という推測がなされているようだ。大舎人は追儺の実行役でもあり、追儺陰陽寮が指揮することになっているので、大舎人と陰陽寮には追儺という接点があることになる。その関係で、安倍晴明の才能を見出した賀茂保憲がスカウトして陰陽師に転身したのではないか?ということのようだ。

この推測が正しいなら、賀茂保憲から見た安倍晴明の才能は「この年齢から仕込んでもモノになるに違いない」と思わせるものだったということになる。賀茂保憲は『陰陽*2の基模』と言われる程の天文、暦、陰陽*3の三道全般のエキスパートだったのだけれども、賀茂スクールとでもいうもので陰陽寮を主導*4しようとしていたらしく、晴明のスカウトもその一環だったようだ。

もっとも賀茂保憲が考えることは安倍晴明も考えるわけで、賀茂保憲の没後、晴明は安倍家の家業としての陰陽師の確立を目指して色々活動して行く。この点、85歳という当時としてはかなりの長命が晴明や安倍家に有利に働いたのは間違いないだろう。

ところで、私にとって晴明といえば『占事略决』なんだけど、『占事略决』の執筆年代として永観元年(973)と天元二年(979)の二説があるそうだ。賀茂保憲が亡くなったのが貞元二年(977)ということを考えると、やっぱり師匠が亡くなってから書いたんじゃないかな。

*1:給料の出る学生

*2:この陰陽は色々な、様々なの意味で使われているのかもしれない。

*3:この陰陽は占い。

*4:その中心となるのは、当然自らの賀茂家なわけだ。