遙尅課というもの

鏑矢(かぶらや)

中国古代の戦争では音を出して飛翔する鏑矢を敵陣に射かけることで戦闘の始まりとした。“かぶらや”という大和言葉があるので日本の古代の戦争でも似たようなものだったのだろう。鏑矢の同義語に『嚆矢』がある。鏑矢が戦闘の開始を告げるものであることから、『嚆矢』を物事の始まりの意味で使用することがある。例えば、

正岡子規は明治近代歌人の嚆矢である。

みたいな使い方だ。私は愛媛県の出身だが、正岡子規は郷土の生み出した最大の文化人と言って良いだろう。愛媛県の元になった伊予の国は気候が温暖であり結果として、俳句や短歌といった文化活動をするだけの余裕が百姓町人にもあった*1正岡子規は、そういった文化的背景から生み出された存在で、決して突然変異のように出現したわけではなかった。温暖な気候は巨峰正岡子規を支えるだけの裾野の広さを作り出していたわけだ。

と、長い前振りだったけれども、六壬神課にも『蒿矢課』がある。『嚆矢課』でも正しいのだろうけれども、物事の始まりの意味で使われる『嚆矢』と区別するために、私は『蒿矢課』の表記を使っている。六壬の蒿矢課は遙尅課の中で二、三、四課のいずれかから日干が剋されていることをしめしている。日干から剋す場合は『弾射課』という。『蒿矢』、『弾射』とも射撃の意味であり、日干直上の第一課からは離れた所と日干で発生する五行の相剋を表すために射撃の意味の用語が使用されているのだろう。

六壬の各四課で天盤と地盤での五行の相剋について、地盤が天盤を剋するものを『賊』、天盤が地盤を剋するものを『剋』として賊を優先して発用を取ることになっている。遙尅課でも日干を剋するものを『遙尅の賊』、日干から剋するものを『遙尅の剋』の剋として、『遙尅の賊』が優先される。なので遙尅課では蒿矢課の方が弾射課よりも多い。ところで遙尅の賊が複数とか、遙尅の剋しかないけれども、それが複数の場合には、比用で日干の陰陽と合うものを発用とすることになる。

遙尅課の場合は比用までで発用が絞り込めることが判っている。遙尅の渉害を数える必要がなかったことについては、六壬の先人達もかなりホっとしたのではないだろうか。

*1:そうは言っても飢饉と完全に無縁というわけではなかった。飢饉の時に種籾を食べずに餓死したが、次年の農作を守った義農作兵衛の逸話が残っている。