自由意志とか宿命論とか公理系の混在とか

以前、小飼弾さんのブログの『自由の反対は?』のエントリで自由意志が存在するかどうかが語られていた。それに対して以下の様なコメントを付けたことがある。

決定論の立場にたとうが、自由意志があると仮定しようが、DANさんの行動が変わるわけじゃないでしょ。それなら好みで決めていいということでしょ。ようは自由意志の有無は、定理じゃなくて公理ってことでしょ。

この考えは今でも変わってなくて、人間の行動が自由意志で決まっているとしても、宿命的に全て前もって決まっているとしても何の不都合も無いので、自由意志の有無は『公理』であって、それがあるという公理系も存在するし、無いという公理系も存在すると考えている。

こういうことを言うと「では、どの公理系が正しいのか、実験的もしくは経験的に確かめてみよう」という反応があるのは当然のことだと思う。もっとも私は個人個人で採用する公理系が異なっていても差し支えないし、個人個人で異なっているはずと考えているので、こういう反応には意味がないだろうと考えている。

では複数の公理系が混在することは可能かというと可能だ。一例として幾何学をとりあげる。平面幾何には大きく3種類の公理系が存在することが判っている。つまり平行線は、

というそれぞれの公理系だ。それぞれ全く異なる公理系だが、それぞれの幾何には相補性があって、どれかの幾何の内部に他の幾何をモデル的もしくは近似的に再構成することができて、お互いに他の公理系の正当性を保証し合っている。

ということで、公理系が混在して存在することに不思議はない。例えば完全な宿命論の公理系を採用すれば、人間の行動は計算によって予測可能となる。しかし人間の行動を記述した方程式は多体問題を解かないといけないのは明らかだが、これは解析的には解けないことが証明されている。また数値的に解こうとしたとき、カオスが発生することは当然のように予想される。結果、計算するよりも実際の行動を観察する方が早いとなれば、その計算には予測の意味が無くて自由意思に従った結果としても支障はないことになる。

ま、私は占い師ということもあり、完全な宿命論や自由意志の公理系は採用してなくて、方向性は決まっているが個々の行動くらいには意志による裁量の余地があるという公理を採用している。