術の学び方

師につくなら

師匠にするなら自分とは隔絶した技術の持ち主であることは当然なんだけど、大名人として完成された人よりも、その手前でもがいている人の方が良いのではないかと考えている。何故かというと、大名人として完成された人は、自分の術が完成する手前でもがいていた事をもはや忘れているかもしれないからだ。

圓寂坊の御師さんが、『楊家秘伝太極拳とは?』の、『《3》現在一般に行われている楊家太極拳は偽物なのか?』で次のように語っている。

もうひとつ付け加えておこう。どのような武術でも、名人や達人クラスの使い手になると、初心者に一から教えるのは苦手なはずである。彼らが一番うまく教えられるのは、自分たちの境地の少し手前に留まっている熟練者のクラスの人々であろう。それは彼らが少し前まで経験し、悩み、解決してきた道であるから。

日本の古武道などは、ひとつの技法を修めるのにも段階があり(表・裏・初伝・中伝・奥伝等)、中国武術も同じような段階を踏んでいく。だから師匠は高弟に教え、高弟は普通の内弟子に教え、内弟子は一般の弟子に教え、一般の弟子は初心者や入門したての者を指導するという図式が出来あがってくる。つまり、師匠は初心者や入門したばかりの者を教えないというのは、勿体をつけているのではなく、下位の弟子のほうが上手に教えられるからに過ぎない。

これが完成された大名人ともなると、悩んでんいたことを全て忘れているかもしれないわけだ。そういう場合、完成された術に接することができたとしても、自分の術を完成に近づけるためには、何をどうすれば良いかを学ぶチャンスはなくなってしまう。

それくらいなら、未完成ではあっても伸び代のある人について学んだ方が良いだろう。そして師匠が何を悩みどう乗り越えて行くのかをしっかり見ておく方が、自分の術の完成にとっては遥かに有意義だと思う。

なので未完成な術など習っても仕方が無いなんてことはなくて、師匠と一緒にもがくことの方が遥かに重要だと思う。

そういうことを考えているので、生徒さんでも判断の軸ができたと思った人には、他人に教えることを奨励している。自分が教える側に回ることで、それまで気がつかなかった自分の欠点に気付くこともあり、また教えること自体が自分の勉強にもなる。そしてその過程が、教えを受けている生徒さん自身の糧にもなるのだ。

軸ができたら

術を身に付ける場合、守破離の三段階をくぐり抜けてやっと術が自分のものになってくる。『守』は師匠なり書籍なりを忠実に守ってその通りやって行く段階だ。ここをキッチリやると自分の術に軸ができてくる。そして術が占術の場合は、自分の価値観が軸と一体化してきて、師匠や書籍の判断が自分に合わなくなってくる。これが『破』の段階だ*1。そして自分の価値観によるズレを、自分の個性として判断に自然と取り込むことができれば、術が自分のものとなる。これが『離』の段階だ。

『破』や『離』の段階では、自分の価値観が判断に影響してくる。価値観はある意味、自分そのものなので、術というものは最終的には自分そのものということになる。武術等でも同じように、自分の体つきといった個性そのものが術に反映されるようになる。そうなると『守』の段階とは学び方を変えざるを得ない。これは身体操作を伴なう術で顕著で、私が色々と参考にしているものの一つに奇術の世界がある。奇術の名手の言葉には心に響くものが多い。例えば、『マジェイアの魔法都市』の『箴言集』にある、長谷川智さんの、

奇術は勝負ではありません。

なんかは、当てることを依頼人との勝負の様に思っている人には有効な忠告だろう。占術も勝負ではなく、占って得た象を手掛かりに依頼人と一緒に問題解決を作り上げて行くものだ。奇術の名手の言葉は『守』の段階の人にとっては、当てることに未熟なままの自分を肯定しかねない危険性を持った猛毒であるけれども、軸の出来た人にとっては、自分にとっての課題や、その乗り越え方を見出すための多くのヒントをもたらしてくれる。同じく『マジェイアの魔法都市』の“The Round Table”も様々なヒントを与えてくれるだろう。

*1:武術だと自分と師匠の体格の違いといったものから術のかかり方が違ってくる。