『命』とか『卜』とか

以下、しばらく余談が続きます。

史上最強の弟子ケンイチ』はちょっと前まで注目していたマンガ*1なんだけど、最近はなんか作者との意識のズレを感じる方が強くなった。

最初にそのズレを感じたのは『DオブD』の頃で、ブラックフォースの皆さんが負けて死にたがること死にたがること。負け即死の軍人さん達が、負けて生きているという僥倖を無駄にするはずがない、というのが私の感覚なので、この辺りかなりの違和感を感じた。

そして最近の『久遠の落日』シリーズは、もう付いてけない感じが強すぎる。だいたいが『闇』が、無手のグループと武器のグループに別れていて、しかもお互い反目し合っているっていう設定が、私にはもうダメダメ。だってさ、無手の技を完成させるには、武器(兵器)を学ぶ必要があるし、武器(兵器)を自在に操るには無手と同じような身体操作が必要なのではないの。

私が奇門遁甲等で御世話になっている圓寂坊さんに最初に御目にかかったとき武術の話になって、「たとえ30cmの棒であっても、その長さは固定されている。その長さを身体操作の中に取り込んで昇華することで身体操作が精妙なものになってくる。」と言われた。多分、六合大槍みたいな長モノを自在に操った李書文の身体操作は、ものすごく精妙でミリかそれ以下の単位で身体を操作できたのではないだろうか。

そういったレベルの精妙さを身に付けると、一見関節を決められている状態であっても実はそうではないという状態を作り出すことができるらしい。『拳児』には、劉月侠が擒拿の師範に関節を決めさせてから反撃するエピソードがあるけど、鎗田先生が、「合気道にも一教を決めたと錯覚させる法があるけど、それに似たようなことをやったんだろう。」と言っていた。それにはミリ単位の精妙さで身体操作を行う必要があるそうだけどね。

占術にも、こういった無手と兵器の相互作用みたいなものがあるのではないかと、最近、強く感じるようになった。まあ私見だけど、無手に対応するものとして卜術、兵器に対応するものとして命術があるように思う。卜術はその場その場での時間感覚が重要になるし、命術では大運・歳運といった卜術よりも長い時間単位での感覚が必要になってくる。

卜術での短い時間感覚と命術での長い時間感覚の両方を研ぎ澄ませることで、それぞれの術が完成していくのではないだろうか。先師、阿部泰山も命術の四柱推命と卜術の六壬を併せ持った人だった。そういえば、梅花心易や鉄板神数の創始者という伝説をもつ邵康節は、皇極経世書で元会運世年月日時分秒といった時間システムを完成させた人だった。

*1:一応、作者の公式サイトにリンクしとくか。