鬼鎮神社の佇まい | 奉納された金棒 |
林巨征先生が薦める開運アイテムに、鬼鎮神社の金棒の御守りがある*1。勝負事で勝ちを求める時に奇効があるそうで、競馬好きの高島正龍公もよく御参りしてたらしい。今日、鬼鎮神社に行ってみて、さすがに鬼の神様を御祭しているだけのことがあると思ったのが、正面の柱にいくつも金棒がくくり付けられていたことだ。願掛けをしたとき御礼に金棒を奉納することが多いらしい。
もっとも私は勝負事に向いてないので、金棒の御守りが欲しかったというわけではない。私の興味は鬼鎮神社の位置にある。鬼鎮神社が坎方北にあるのか乾方北西にあるのか微妙な位置にある。それでどっちの方位の効果が出るか実験しようと思ったわけだ。
もっとも『実験』とは書いたけど、これは全然、実験の体を成していない。方位の効果が存在した場合、最も強く作用する対象は心だろう。こういった場合、実験を行ったことそのものが心に作用してしまって、方位の効果を打ち消してしまうことがあるわけだ。
何かやった、何か良くなった、この方法には効果があった、という論法には3た論法という名前があって、特に医療関係ではこの論法を使うことが厳に戒められている。何故なら全く効果がないとか、逆に害があるような治療法であっても、人間の身体には自然治癒力があるために、仮に病気が治ったとしても採用した治療法の効果かどうかは全く判らないからだ。おまけに人間にはプラセボ効果がかなり効くために、被験者が効果があると信じることで自然治癒力が強化されることだってある。
そのため、最近の新薬の開発では二重盲検法等を使った効果の実証が義務付けられている*2。二重盲検法では、薬をもらう側とともに薬を出す側も、薬か外見は薬だけど何の効果もない何かなのかが知らされていない状態で、薬の効果の有無が判定される。薬をもらう側が薬かどうか知らされていないのは、薬だよと渡されて発生するプラセボ効果を排除するためなのだけど、薬を出す側まで知らされていないのは、
といった理由がある。
こういうことを考えると、科学的に方位の効果を検証した実験は皆無だろう。たとえ誰かが何千回、何万回、方位の効果を実験したとしても、それが系統だったものであるなら、実験者=被験者なわけでプラセボ効果と観察者バイアスの両方が排除できていないからだ。基本的に実験者=被験者な場合、科学的なアプローチは不可能ということで、術としてのアプローチしかないだろう。時々見かける、「私がやっているのはただの占いじゃなくて深遠な学問だ」とか言いたがる人は、術と学の両方を舐めてるとしか思えないよね。
まぁたまにオレの運命学で3年方位取りをした御蔭で、どこぞの出版社の副部長が部長に昇進できたと自慢するような人がいるけど、副部長を部長に昇進させるのに3年かかるようなトロ臭いモノを自慢できる事の方が凄いと思うってしまうよね。
実際現状では3た論法に毒だし理論*3を組み合わせれば、オレの方位学には効果があると強弁するのはそんなに難しくはないだろう。
で、鬼鎮神社への方位取りで坎と乾、どっちの効果が出たかというと、まぁ観察者バイアスの通りだったと。