これはアンフェアでしょう(03月11日追記)

ここしばらく取り上げている、黄先生の「紫微斗数と七政四余の比較」だが、最新号では以下のように書かれている。

現在広まっている百十個の星(神殺*1)を用いる《紫微斗数》は、早くは清朝同治年間の木刻本『十八飛星策天紫微斗数全集』に由来するものです。この書の「巻六」の冒頭を見ると、「子は寶瓶に属し…、寅は人馬に屬し…」などと現代の西洋式十二星座の名称を採用していることが分かります。これをもってしても、中国が五代十国と呼ばれていた時代の人である陳希夷の創始でないことが分かります。明の時代の『鉄板神数』の前編にも、紫微斗数についての記載があるのですが、これらは全て清朝中期以後に何者かによって付け加えられたものであって、決して明朝時代の原書にあった訳ではないのです。

しかしながら、現代の紫微斗数の直接の源流である「紫微斗数全書」は清代よりも早く明代に出版されている。このことは黒門さんがすでに「紫微斗数と十八飛星策天紫微斗数」で以下の様に指摘している。

しかしながら、紫微斗数が世に出たのは明代1550年に発行された「紫微斗数全書」からであり、宋代の仙人陳希夷の18代目の子孫と称する羅洪先なる人物の編纂とされています。しかし、創始者を宋代の陳希夷とされているものの、事実上紫微斗数は宋代にまとまったとするより、この明代に集大成されたとする考証家も多いようですし、自然な見方といえます。一方、「十八飛星策天紫微斗数全集」が発刊されたのは清代の1870年であり、なんと300年以上の隔たりがあり、むしろ十八飛星の方が紫微斗数よりも随分後に公になっています。自然に考えると、十八飛星から紫微斗数へと発展したと考えるより、紫微斗数を参考に十八飛星がまとめられたと考えるほうが自然であるように思います。

紫微斗数全書は十八飛星策天紫微斗数に先行すること350年である。黄先生が十八飛星策天紫微斗数紫微斗数のオリジンとする主張をされるのは御自由だが、紫微斗数全書が十八飛星策天紫微斗数の世間への出現よりも350年早く出版されたことを伏せたままなのは、アンフェアではないですか。

なお上記引用の黒門さんのコラムは2001年05月15日に書かれている。

*1:Windowsに固有の文字が使用されていたので「殺」に改めた。