浸食し合う虚構と現実

シン・ゴジラが話題になっている。このシン・ゴジラについて非常に興味深い論考を見つけた。『日々の音色と言葉』さんの所の『虚構と現実は逆転する−−『シン・ゴジラ』感想』というエントリだ。このエントリでは、シン・ゴジラの前半は虚構であるゴジラ vs 現実の日本の構図であったものが、後半において逆転しているのではないか、という考察が展開されている。

そして一方でポケモンGoというゲームが、ARの技術を通じて現実を浸食している。この『浸食し合う虚構と現実』というテーマは、筒井康隆の作品では『脱走と追跡のサンバ』に始まって『虚人たち』に繋がり、実際に読者投稿がストーリー進行に影響を与える『朝のガスパール』が生まれている。

実は人類が扱うことのできる『テーマ("thema")』は、そんなに多様ではないという話がある。どんなに多くても100はいかないようだ。哲学の用語の一つに『テマータ*1』がある。この言葉の存在を教わったのは大学の1年の頃なので、もう40年以上前のことになる。この言葉を教えてくれた師匠は、その前にクーンの『科学革命の構造』と宮本悦也さんの『流行学』も推薦してくれた*2。そして師匠はテマータについてこんなことを言った。

科学革命の系譜を縦糸に、テマータを横糸とすることで、科学への認識が完成するのではないか。20世紀の中心的なテマータは『個と全体』だったが、21世紀はどうなるのだろう。

全体が個を単にスケールアップしたものではないことが、量子力学や経済学によって導き出されている。これらの成果は21世紀になって16年経過した今、まとめられて一般人も目にするようになってきている。

では21世紀の中心的なテマータは何になるのかというと、私は『虚構と現実』なのではないかと考えるようになった。脳の研究から、人間の認識は脳が作り出したバーチャル・リアリティ*3の上に構築されているということが判ってきている*4。なので虚構と現実は御互いに浸食し合うのは当然、もしくは、人間はフィルタリングされた虚構しか認識できないということになる。

そして人間の認識が脳というハードウェアに依存している以上、認識の枠の外に真のリアルがあることになる*5

*1:“themata”:テーマの複数形

*2:どちらもカブれた。結果的に私は科学革命と流行の大転換は、周辺で発生した『例外』が『規範』に取って代わる現象だと理解するようになった。

*3:つまり尤もらしい虚構だ。

*4:御釈迦さんなんかは、とっくに気が付いていたはずだ。

*5:そして科学の認識は、どこまで有効数字があっても、有効数字の下は判らないという意味では近似だ。