鷲田清一をdisってみる

Double standard

偶然に2011年度のセンター試験の国語の問題についての解説を読む機会があったのだけれども、その問題で採用されていた鷲田清一の文章が気分悪かったのでdisってみることにした。引用文は、河合塾のサイトから拾ってきた。引用文中の変なカタカナは漢字の書き取り問題で使われていたためだ。

鷲田清一は、どこぞのグループホームの在り方が気に入ったようで、そこを持ちあげるためにバリアフリーを貶すようなことを書いている。まず問題文の劈頭、こうくる。

 わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホームのことを。
 住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイーサーヴィスの施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど違い。

そして『バリアフリー』が出て来る次の箇所はこうだ。

 「バリアフリー」に作られた空間ではそうはいかない。人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある。

そしてこうだ。

バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。

あんなぁ爺さん、バリアフリーってのは、例えば車椅子の人が自分で様々な場所に出かけることができるように、その障碍となる段差みたいな構造を取り払ってしまいましょうということだろう、違うか?車椅子の介助者が楽するためじゃなくて、介助者無しでも車椅子で出かけられるようにしようというのがバリアフリーだろうに。

で、鷲田清一は、最後から3番目の段落でそのグループホームを持ちあげるためにこんなことを書いてる。

からだと物や空間とのたがいに浸透しあう関係のなかで、別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている。その手がかりのジュウマンする空間だ。青木はいう。「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」、と。そのかぎりで高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある。

ところがさ、

 「バリアフリー」に作られた空間ではそうはいかない。人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある。

の次にはこう来る。

からだはその空間にまだ住み込んでいない。そしてそこになじみ、そこに住みつくというのは、これまでからだが憶えてきたキョソを忘れ去るということだ。

周囲の物との関係性を再構築することが、バリアフリーな空間だと挙措を捨て去ることになって、民家をそのまま再利用した空間だと「文化」があることになるんだってさ。こういうやり口はダブルスタンダードって言うんじゃないですかぁ。私には恣意的で知的誠実さに欠けた言葉遣いに見えるが僻目ですかね。こんな知的に不誠実な文章を読むことを余儀なくされた2011年の受験生は気の毒だったと思うね。