平安京の風水のデザインは相当に考えて作りこまれたものだ。
本来の平安京の大極殿*1は、龍穴の上に位置している。この龍穴の元になった龍は、京都の北にある山塊から下ってきて、頭である父母山が、左大文字山、龍が目指す星が船岡山である。また龍は分岐して、青龍砂である東山の大文字山、白虎砂である嵐山を形作っている。龍穴はこの地形の配置によって成立しているので、船岡山が削られて無くなることでもない限りは、龍穴が無くなったりはしないはずだ。
にも関わらず現在、京都の龍穴は交差点となっており、龍穴の上に何の建物もない。このことが、私には非常に不思議だった。私が平安遷都から戦国時代のどこかに生きていて、風水の知識を持っていて、それなりの権力があれば、焼失した大極殿の上に住居を構えていただろう。*2
しかも平安遷都から戦国時代にかけては、朱雀である水として巨椋池*3という船で材木が運べたほどのかなり大きなものがあって、京都の経済力を風水の観点からも裏付けていた*4わけで、富貴双全が得られたはずだ。
この疑問の答えが最近見つかった。今谷明の「京都・一五四七年(購入)」(ISBN:4582764800)は、上杉家所蔵の「洛中洛外図」を詳細に検討した上で、この洛中洛外図が1574年の限られた期間(天文十六年七月〜閏七月)の京都を詳しく描いたものと結論している。この当時、京都は政治の場所としての上京と商工業の場所としての下京に分裂していて、特に上京は城塞都市化していたらしい。
そして私はこの本を読むまで知らなかったが、信長の後を襲った秀吉が、1590年に京都を大改造している。秀吉は京都を完全に武装解除した上で、京都に日本の権力中心が生まれないように、平安京の龍の無力化を仕組んだのではないだろうか。秀吉はまた治水を兼ねて巨椋池の縮小化に手を付けている。*5
まあ、この推論は秀吉に風水の知識があったらという仮定が入っているが、信長の安土城には風水によって位置決めを行った形跡があり、また家康の江戸城は明らかに風水に基づいているので、秀吉にも風水のブレーンがいたとしても不思議ではないだろう。