山川道沢の四神相応

先日、面白い資料を入手した。とある大学の日本文化史の講義の資料なのだが、日本における風水の受容の歴史がコンパクトにまとめられていた。日本では海外文化の受容に積極的な期間と、内側にこもって独自文化を発達させる期間が交互にあらわれる。飛鳥から平安初期までは海外文化つまり当時としては中国文化を積極的に取り入れてきたが、遣唐使が廃止されてからしばらくは内側にこもる期間があり、平安中期に日宋貿易によってまた中国文化の輸入が始まる。

日本が仮名とか作って独自文化を育成していた期間に、中国では唐の滅亡から五代十国の時代を経て宋の成立という大きな変化があった。この期間に風水にも大きな変化があった。それは巒頭を重視する江西派と理気を重視する福建派の成立である。

私の理解では江西派によって四神相応や龍穴砂水の概念が確立されたと考えていたのだが、どうも江西派の巒頭の判断も当初から確立されたものではなかったらしい。というのが『吾妻鏡』に山川道沢の四神相応が出てくるからだ。山川道沢の四神相応は『作庭記』の『樹事』に以下のようにあることがよく知られている*1

人の居所の四方に木をうゑて、四神具足の地となすべき事
経云、家より東に流水あるを青竜とす。流水なもしそのけれバ、柳九本をうゑて青竜の代とす。西に大道あるを白虎とす。若其大道なけれバ、楸七本をうゑて白虎の代とす。
南側に池あるを朱雀とす。若その池なけれバ、桂七本うゑて朱雀の代とす。
北後にをかあるを玄武とす。もしその岳なけれバ、檜三本うゑて玄武の代とす。かくのごときして、四神相応の地となしてゐぬれバ、官位福禄そなはりて、無病長寿なりといへり。

鎌倉幕府北条泰時の時代である嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させている。この時、御所の選地にあたって幕府に派遣されていた陰陽師達と、奈良興福寺の僧で法印であった珍誉との間で論争があったことが『吾妻鏡』に記録されている。珍誉はこの当時、鎌倉幕府に使えていた。『吾妻鏡』嘉禄元年十月廿日丁未条によると、『国道*2朝臣以下七人陰陽師』は『法華堂下地』を四神相応として第一候補にあげ、珍誉もまた四神相応として『若宮大路』を第一候補としている。そして珍誉のいう四神相応は以下のように『作庭記』にある山川道沢の四神相応と同じものになっている。

若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。
若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。

山川道沢の四神相応は龍穴砂水の四神相応とは全く異なっている。寝殿造りの庭園における四神相応だけなら日本のオリジナルと考えて良いかもしれないが、鎌倉幕府の御所選定にまで出てきていることを考えると、山川道沢の四神相応は当時の最新の考え方であって、それは中国から輸入されたものと考えられる。巒頭による判断なので江西派起源だろうが、山川道沢の四神相応は現代の龍穴砂水では無視されているので、この時代特有のものだったのだろう。

中国の四神相応は、昔からずっと龍穴砂水に決まっていたのだろうと思っていたのだが、どうもそれは甘かったらしい。『吾妻鏡』とは盲点だったなあ。しかし面白い資料が入手できて良かった。

*1:早稲田大学中谷礼仁先生が公開されているものから引用した。→『作庭記』

*2:安倍国道。