『天書』という言葉

平妖伝における「天書」の用語法

平妖伝で思い出したが、平妖伝には何度か「天書」という言葉が出てくる。これは、白猿神が天宮にある書庫から無断で持ち出した書物である「如意宝冊」(もしくは「如意冊」)*1を指す言葉として使用されている。

ま余談だが、この如意宝冊は符呪についての書物で、白猿神はこの如意宝冊に書かれた文字や符を、自分の住む白雲洞の壁に彫り付けてしまう。そして、彫り付けられた天罡法と地煞法の中の地煞法が、蛋子和尚によって写し取られることになり、それが平妖伝の発端となっている。*2

平妖伝の作者である羅貫中にとっては、「天書」とは天の機密を漏らした書物一般を指す、普通名詞のようなものだったと推測される。その証拠に、如意宝冊を天書と呼ぶことはあっても、地書と呼ぶことは一度たりともない。平妖伝においては、如意宝冊の中の地殺法の部分しかないので、もし、一連の書物に二つの内容があって、それぞれを「○○天書」、「○○地書」などと呼ぶ習慣が一般的なら、羅貫中は「如意宝冊地書」ないし「如意地冊」とでも呼んでいたはずだ。少なくとも、如意宝冊を天書とは呼ばなかっただろう。

羅貫中は、上田秋成雨月物語の序文に「羅子撰水滸。而三世生唖児。」と書いた大劇作家*3であるから、このあたりについて、いいかげんなことを書いたとは思えない。

羅貫中と同時代の人

羅貫中は、元末から明の時代を生きた人であるから、劉基(劉伯温)は同時代の人である。実際、羅貫中によって書かれた三国志演義諸葛亮は、劉基モデルに書かれたという話まであるくらいだ。であるなら「天書」という言葉の使用方法において、羅貫中劉基に差があったとは思えない。

ということで、私は劉基が「奇門遁甲天書評註」、「奇門遁甲地書評註」、「奇門遁甲天地書別冊」などを書いたという話には大いなる疑問を感じる。まあ、劉基に仮託された「奇門遁甲天書」は*4あるかも知れないが、「奇門遁甲地書」は多分、透派ないしその系統以外の所からは出てくることがないだろう。

とはいえ

内容的には「奇門遁甲地書」の方が「奇門遁甲天書」よりも、遥かに標準的な奇門遁甲に近い。例えば、超神接気についても正しい内容となっている。*5ま、この本自体が色々な古典の寄せ集めだから、標準的な奇門遁甲に近いのは、当然といえば当然の結果だけどね。

*1:不思議だが、如意宝冊が最初に出てくるところでは、決まって「怒意宝冊(いぬかいさつ)」と書かれている。

*2:本当に余談だが、作中、聖姑姑は如意宝冊の著者を「如意宝冊子」と呼んでいる。天宮の書庫に封印されていた書物なのに、まるで如意宝冊を人間が書いたかのような表現に感じる。羅貫中の手元には「如意宝冊」という表題の書物があったのかもしれない。

*3:羅貫中は、水滸伝というあまりに面白く真に迫った小説の作者であり、その面白い小説を書いて世を惑わせた罪で、三代にわたって子孫に唖者が出た、という伝説がある。

*4:劉基奇門遁甲について天の機密を漏らした書物という意味のネーミング。

*5:もし数種類の超神接気があるとしたら、閏の置き方をどうするかくらいだろう。超神接気である以上、符頭日での換局は動かせない。なお透派の「奇門遁甲天書」において、超神接気という言葉が使用されていないということは記憶に留めておくべきだ。