古田武彦さんの思い出

東日流外三郡誌

戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」 (集英社文庫)』を読んだ。書評通り面白く一気に読み通した。『東日流外三郡誌』を“つがる-そと-さんぐん-し”と読むことができる人間は今でも、あるいは今となっては少数派だろうか?私は勿論読むことができた。この名前に最初に出会ったのは、復刊迷宮誌だったと記憶している。復刊迷宮は後に八幡書店を起こす武田崇元さんが編集長をしていた雑誌だ。

本書を読めば『東日流外三郡誌』が発見者とされる和田喜八郎氏によって捏造されたものだということが疑いの余地がないものであることが判る。Kindle版もあるので、未読の方は是非とも読んで欲しい。

本書で『東日流外三郡誌』を含む『和田家文書』の最大の擁護者とされるのが古田武彦さんだ。実は私は大学時代に1度か2度、古田さんに手紙を書いたことがある。『1度か2度』といったのは、内容としては2つあって、それを1本にまとめて手紙にしたのか、別々にしたのか覚えていないからだ*1

1つは『盗まれた神話』絡みだったかの話だ。四国は、日本書紀で『伊予二名洲』、古事記で『伊予之二名島』と表記されている。古田さんは、この『二名』が地名として現代まで残っているとし『双海町』を挙げていた。ところがこの双海町は1955年*2に上灘町と下灘村が合併してできた町で、どちらも海を意味する『灘』が入っていたので双海町となったわけで、地名としては新参者なのは間違いない。実は愛媛県宇和郡伊方町には『二名津』地区があり、表記からいっても『伊予二名洲』や『伊予之二名島』に近い。そういったことを指摘した手紙を古田さんに出したところ礼状は来たが『盗まれた神話』が訂正されたという話はついぞ聞いてない。私はこれ以来、古田さんを誠実な研究者とは思わなくなった。

もう1つは『扶桑』についての話だ。どこかの大学の研究者の方*3が、『扶桑』が特定の地をしめす地名のような使われ方をしているという研究を公表されていて、古田さんは、この『扶桑』が九州王朝の東限であるとしていた。

私の故郷である伊予市郡中には扶桑木*4の伝説が残っている。太古の時代、郡中の森の浜には巨大な扶桑木が生えていて、その影は九州を覆っていた。九州からその扶桑木を切るために人がやって来て切り倒したところ、先端が九州まで届いたので切りに来た人達は木の上を通って九州まで帰ったという。なんでも先端が届いたところが杵築*5だそうだ。

この伝説の元ネタになったのが森の浜にある郡中層と名前がついた地層の露頭で採取される化石植物で、メタセコイアなどの化石が出土する。この化石植物は印鑑の材料として使用されたので、もうそんなに残ってないが今でも大潮の干潮時には化石植物の残滓を見ることできる。

私はこういったバックボーンがあるので『扶桑』が特定の地を指しているなら、郡中こそが『扶桑』であるだろうということで県立図書館で古文書のコピーを取って古田さんに送った。大した反応は無かったと記憶している。この頃から『古田史学』への関心は急速に薄れていった。

*1:30年以上前の話だ。

*2:昭和30年

*3:記憶が曖昧で申し訳ない。愛媛大学だったかもしれない。

*4:桂の木とも言われていたそうだ。

*5:木が着いたので“きづき”となったとか。