天譴の構造

先日、国会図書館に行ったときに読んだ元勇準博士の論文が実はもう1篇ある。

この論文は、上博楚簡にある「柬大王泊旱」の記事が、どの系統に属しているのかを追及したものだ。「柬大王泊旱」の記事は、内容的には旱魃に苦しむ柬大王が、旱魃を天譴として受け止めて、天に謝罪する儀式を執り行って雨を得たという話だ*1

天譴とそれに対する儀式というと、董仲舒がすぐに浮かんでくるけれども、実は天譴思想の根っこは墨家にあるそうだ。マンガで読んだ「墨攻」の影響で墨者というとリアリストである技術者というイメージがあるけれども、墨家は天譴思想のような呪的な思想も強く持っていたらしい。

さて、天は王や候といった地上の支配者を監視していて彼らが天の意思に背くとき、大きくは天変地異、小さくは彼らの病気といった罰を下す。これが天譴だ。天⇔支配者→被支配者(民衆)という構造であって、天変地異において、民衆が苦しむことについての責任は民衆には一切無く、全て支配者の責任である、というのが天譴だ。

だからもしも東日本大震災が天譴であるというなら、民衆が我欲にまみれているのとは無関係に、日本の支配階級こそが我欲にまみれていることの責任を負うべきなのだ。ということで、石原慎太郎よ、東日本大震災が天の下した罰というなら、日本の首都たる東京都の首長として、斎戒沐浴して後、クソ暑い中、日に照らされながら、あるいは台風の風雨の中ずぶ濡れになりながら、天への詫び状でも読むが良いいだろう。

*1:と、私は理解した。