本当に運の好い人には自分の運の好さが判らない

地下猫さんのところで継続されている凌辱ゲーについての考察を読んで、判らないということへの対応策は判らせる以外にはないのかなと考えてしまった。これじゃ何を言ってるのか判らないと思うけど、地下猫さん自身が以下のように独白している。

例えば、飲み屋で知りあったヒトが面白そうな奴で、そいつの家に飲みに行ったら「ついてきたってことは、そういうつもりだったんだろがー」とか言われながら犯されて、被害者として届け出ると「オマエが誘ったんだろ」などといわれ、裁判でもさらしものになり、周囲からもいろいろな嫌がらせを受けるということが現実の危機としてある世界に住んでいたら、こういう表現には脅威を感じるでしょうにゃ。

そして地下猫さんは上記引用について「♂にとって現実の危機があるとは考えられない」と告白されているわけだ。でも「♂にとっても現実の危機がある」こともあるわけだ。例えば、放映当時物議をかもした中学生日記の「誰にも言えない(前編)」なんてのがあって、少なくともNHKの教育放送の番組制作者が「現実の脅威」と認識していたことが確認できる。この「誰にも言えない」がどんな話だったかは、謝る前にケツを出せさんのレヴューである、「痛みを知らない大人が嫌い。音が鳴らないベルトが好き。」のエントリが詳しいので興味があるなら確認しに行けば好いと思う。実は知人に少年時代に痴漢の被害に遭った人が一人いて、「身体がすくんで何もできなかった」という体験談も聞いたことがある。なので痴漢にあったら♂も♀もなく身体がすくんで抵抗とか抗議できなくなることはままあるんだろうというのが私の認識だ。

蓼食う虫も好き好きである以上、私や地下猫さんが痴漢の被害にこれまで遭わずに済んできたのは、単に運が好かったということだろう。♂の場合、この運の好い方が圧倒的に多数派なので、被害にあった不運な少数派にとって「被害者として届け出る」ことすらものすごい障壁なんだろうと思う。

占い的には運の総量は生まれたときに決まってしまう。そして性犯罪の被害者になったことがないということは、知らない間に運を消費したことでもある。なので、

極端な話、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現(ある種のポルノ)は「完全なるフィクション」「思考実験」となり、誰も具体的な脅威を感じることもなくなり、何の問題もにゃーわけだ。不道徳とかいう批判なんざ知ったこっちゃにゃーしな。

という理想状態に向けて、世の中が動いてくれる方が占い師としても嬉しい。そして性犯罪を放置するということは、知らない間に自分の運が削られて行くことでもあるのだ。♂だろうが♀だろうが、凌辱まで行かなくても痴漢の被害に遭ってないというだけで、運が消費されているのだから。