神機制敵太白陰經巻九遁甲
今の所、奇門遁甲の文献で刊本とはいえ最古のものが、唐代の李筌によって書かれた『神機制敵太白陰經』の『巻九遁甲』ということになる。これを玄珠さんが見つけるまでは、私の周辺では『煙波釣叟賦』が最古ということになっていたのだけれども、『煙波釣叟賦』が書かれたのが宋の始めなので100年くらいは遡ったことになる。また『煙波釣叟賦』は名前の通り詩の一種である賦なので解釈の余地があるといえばあるけれども、『神機制敵太白陰經(以下、太白陰経)』は散文で書かれているので解釈の余地はあまり無い。
この太白陰経の『巻九遁甲』と『巻十雑占』は四庫全書の太白陰経には採録されていない。そこで『巻九遁甲』と『巻十雑占』は、後世の偽作という説が無いわけじゃない*1けれども、私は表記の特徴から李筌が書いた当初から『巻九遁甲』と『巻十雑占』があったと考えている。太白陰経『巻九遁甲』の表記にはこんな特徴がある。
- 月将の名として『徴明』が使われていて、宗の仁宗に関わる避諱が行われていない。
- 一方、『巻十雑占』の玄女式*2では『登明』となっていて避諱が行われていなる。
- 時刻の表記において「〇日の夜半、干支では△子」と、十二時辰を表記した上で、時刻の干支を表記している。
- この十二時辰の採用は、太白陰経の他の巻でも共通している。
1に関しては、まず太白陰経の著者である李筌は宗の仁宗はまだ生まれていない時代の人だったので、李筌による執筆時点では全て『徴明』の表記だったはずだ。それを後世の校訂者が仁宗に関わる避諱を行って登明に改めたけれども、それは玄女式の部分に留まって、巻九遁甲では見過ごされたということだろう。
2に関しては、十二時辰の方が干支による時刻の表記よりも古く李筌はそれを意識して執筆したか、執筆時点で干支による時刻表記はまだ一般的ではなかったのどちらかだろう。
ということで『神機制敵太白陰經巻九遁甲』が奇門遁甲の最古の文献であると考えている。