怨霊史観についての一考察

怨霊史観

怨霊史観というものがある。強い恨みを抱いて死んだ政治的敗者の怨霊への恐怖が日本の歴史の駆動力であった、というアレだ。怨霊史観では聖徳太子を怨霊であったとすることが多い。以前、『聖徳太子は祟ったか?』というエントリで、平安時代に書かれた『占事略决』の『占病祟法第廿七』を傍証としてあげて、聖徳太子は怨霊ではなかったんじゃないかという主張をしてみた。そのエントリについたブクマコメントから、日本書紀以降の国史にあげられている怨霊の記録をまとめた記事*1を知ることができた*2。今回はそれを使って、怨霊史観について再度検討してみたい。

まず、75件の記事で祟ったのが神*3なのか人なのかを分ける。この過程で2件の記事が除外された。山稜は人の墓所なので山稜が祟ったとしている場合は人が祟ったものとした。神と人それぞれの件数を50年分まとめてグラフにしたものをしめす。
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800-849年で怨霊の記録件数がぐんと増えて、次の850年からは少し頭打ちになっている。グラフでは850-886となっているけれども、実際には900年までの記録を使用している。では祟りの主体である神と人の割合がどうかというと、下のようになる。
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件数がぐんと増えた800-849年では、神の方が優勢ではあるものの人が半ばまで押していることが分かる。次の50年では件数の頭打ちに呼応するかのように神が盛り返している。

早良皇太子以前に人が祟ったという記録が無いことから、怨霊史観は成立しない・聖徳太子は怨霊ではなかった、という主張に対して、怨霊史観の支持者は、

人が祟るのは当たり前だったから、わざわざ記録する人間がいなかったのだ。

と反論してくることが多いように思う。しかしこの反論は上の2つのグラフから成立し難いと思う。理由を列挙してみる。

  • 人が祟るのは当たり前なら、時代区分と共に記録された件数が増加するとは考え難い。
  • 人が祟るのは当たり前なら、時代区分によって人と神の割合が変化するのは何故か?

ということになる。まあこれも「資料至上主義なのがそもそも間違いなのだ」と反論してくるんだろうけどね。

聖徳太子の髪は祟った

ということで、私は聖徳太子が怨霊だったとは今は考えてない*4。もっとも聖徳太子の遺髪は祟ったらしい。以下の記事があった。

続日本後紀』承和4年12月丁酉(8日)条(837)
勅令造、轆轤木壷一合、銅壷釦鏤者一合。備于奉納天王寺聖霊御髪。事由未詳。
但口伝曰。聖徳太子御髪四把。深蔵于四天王寺塔心底下。去年冬。霹靂彼寺塔心時。遣使監察。而其使私偸霊髪。与之己妻。由是後日成祟。因更捜索。還蔵本処云々。

(大意)
勅令でロクロで削った木とか銅の壷を作って『聖霊御髪』を納めて天王寺に奉納したけれども詳細は分からない。
どうも聖徳太子の御遺髪らしい。四天王寺の塔心の底に収蔵されていた。去年の冬に雷が塔に落ちたのだが、その時に派遣された監察が、その髪を持ち去って妻に与えた。するとその後、祟りがあった。そこで再度、髪を探して四天王寺に奉納することになった。

訓点は引用者が除外し、句読点も一部打ち直した。

*1:神道・神社史料集成『祟』

*2:Thanks id:machida77さん。

*3:人間とは異なる超自然的な存在を含む。

*4:『隠された十字架』にカブレた時期はあったけどね。