日本での奇門遁甲の変化

まあこのタイトルが指す内容について、そんなに詳しいわけではないので、単なる思いつきなんだけど。奇門遁甲は中国では唐末にはほぼ現在の形に近いものが存在していたということは、太白陰経の巻十遁甲巻によって確かめることができる。

日本において、飛鳥から平安の時代の奇門遁甲は、中国の奇門遁甲そのままであっただろう。しかし戦国時代には、日本独自の奇門遁甲が生み出されたと考えて良いだろう。甲州流北条流、山鹿流といった軍学には、そういった独自の奇門遁甲伝えられているようだ。そして江戸時代において、八門遁甲や奇門遁甲九星術を指す言葉へと変貌して行く。

こういった現象について、佐藤六龍さんや故人となった透派掌門人の張耀文さんなら「日本人が馬鹿だから複雑な奇門遁甲が理解できなかっただけだ。」と一蹴しそうだけど、私は別の考えを持っている。つまり日本と中国では、戦争の形態に違いがあったために、日本の戦争の形態に合わせて奇門遁甲が作りかえられていったのだろう。

中国では都市は城壁によって外部とは切り離されている。戦争においては都市の攻略が中心となるため、戦争における中心的な課題は攻城戦になる。本来の奇門遁甲は、攻城戦に適性をもっている。しかし日本の戦争で重要なものは野戦であり、実は奇門遁甲はあまり野戦向きではない。どちらかというとまだ九星・気学の方が野戦向きだろう。そのために野戦向きの奇門遁甲が求められ作り出されていったのだろう。