御釈迦さんは臨終の時何を思っただろう?

件の神事において「御釈迦さんと似ている」といわれた。ただ御釈迦さんの現世への絶望は日本で生まれ育った人間には共有不可能なんじゃないかと思う。御釈迦さんの現世への絶望はインドの厳しい風土から生まれたもので、そういうところに生まれ育った人間でないと理解できないのではないだろうか。

御釈迦さんはたった4度、厳しい風土の現実を見ただけで現世に深く絶望した。そしてこの世界からの脱出を真剣に考え、脱出するために愛しい妻子を捨てた。それも「私たちを捨てるならこの子を踏んで出て行って下さい。」という妻の申し出を受けて、赤ん坊のわが子を踏みつけた上で住み慣れた城を出て行っている。

御釈迦さんはこの世から脱出する方法を苦行の果てに見出したが、それは言葉にすると非常に単純なものだ。世の中を正しく見、正しく理解し、正しい言葉を使い、正しく行動する。そうすれば執着を捨てることができて、肉体が滅びるときに魂はこの世から脱出して二度と帰ってこない。しかしこの「正しく」の具体的な内容は言葉にならず、体験を通して個々に理解するしかない。

御釈迦さんは脱水症状で薄れる意識の中で何を思っただろう?執着を捨て去ることに対する執着も捨てていたはずだから「これで充分満足だ」とは思わなかったと思う。多くの弟子がいたし、御釈迦さんから見ればまだまだ指導が必要な状態だったろう。だから人生に対する満足度は「まあ良いか」程度だったと考えられる。

もっとも私が口にする「まあ良いか」と御釈迦さんの「まあ良いか」では寄って立つ体験の深さがあまりに違うし、何より私は御釈迦さんのように現世に絶望していない。私は何のかんのいっても現世が好きだ。可能なら何度でも立ち返りたい。それ故、御釈迦さんの苦悩を理解することは遂にできないだろう。そしてこれはまた恵まれた自然を持つ風土に生まれ育った人間の多くが持つ感覚ではないだろうか。

ついでに言っとくと五時教判は現代では完全に否定されている。五時教判で最上の経典とされる法華経のオリジンはカルトの経典だったので、法華経法華経自身に関して語ることを鵜呑みにするのは危険だろう。実際、日本の仏教系カルトの多くは法華経が根にある。まあ岩波文庫法華経上巻の解題でも読むことだ。